第16イヴェ うちゅうの曰く、会場には早よ入りぃ〜:〈夏兄〉DAY1

 そして遂に二〇二一年八月の最終週の金曜日を迎え、二年ぶりとなる〈夏兄〉の開幕となった。


 〈うちゅうのスギヤマ〉は、開場開始時刻になるや否や、開演まで未だかなりの時間があるにもかかわらず、さっさとライヴ会場への入場を済ませてしまった。

 スギヤマのかくの如き行動には理由がある。


 二〇二一年、この夏開催されたライヴ・コンサートの中には、その入場の際に、テロ対策の観点から、手荷物や持ち込みの飲料水に関して保安検査が為されたイヴェントさえあった。それは、この年に東京で開催された、世界規模のスポーツの祭典の影響ゆえのことであろう。


 しかしながら、〈ナツアニ・メロメロ・ライヴ〉においては、五輪が開催される遥か以前から、入場セキュリティーが、他のアニソン系のフェスやライヴよりも段違いに厳重であった。

 例えば、ただ単にチケットを確認するに留まらず、入場者が持参した全ての手荷物の中身は確認され、持ち込みが許可される飲料はペットボトルのみで、安全性の観点から缶類は没収され、衛生上の問題から水筒は破棄するか、受付に預けなければならなかった。

 さらに、観客に対して、ボディーチェックと金属チェックを課すという念の入れようであった。

 そして、この厳しさは、入場時に留まらず、開演中は、レスラーかアメフトのラインを想起させるような、外国人のガーディアンが通路を絶えず闊歩していた程であった。


 こうした厳重過ぎるガチガチな状況について、とあるイヴェンターが、こんなことを語っていたものだ。

「ワイら、テロリストかよっ!」

「まあ、ある意味、危ないのは確かだからな、知らんけど。でも、あんなんに、絶対、勝てへんわ」

「もしも、〈レギュ〉違反したら、問答無用で〈ドナドナ〉ですよね、きっと」

 

 入場者数が万を越えるような大規模イヴェントでは、開演中に客同士が揉めたり、不貞の輩が、ステージに物を投げ込むような事態は起こり得る事で、物の投げ込みは実際に〈夏兄〉で起こった出来事なのだ。それゆえに、肉弾戦において、ヲタクが絶対に勝てないような警備員の存在は、抑止の意味から有効なのは議論の余地すら残らないであろう。


 さて、話を入場セキュリティーに戻すことにしよう。


 空港の保安検査場と同じように、〈夏兄〉会場の入口でも、たとえ金目の物が入っていなかったとしても、上着やズボンのポケットの中身を完全に空にしておかねばならない。そうしておかないと、金属探知に引っかかってしまうことがあり得るのだ。

 例えば、夏のお供である、ギャッツビーのような洗顔ペーパーも、実は、この探知機に引っ掛かってしまう。それ以外にも、金属でもないのに、こんなんで引っ掛かるの?って物もある。

 だから、〈夏兄〉では、空港で飛行機に搭乗する時と同じ程度の事前準備をしておかないと、何度も繰り返し検査を受けることになり、円滑な入場が叶わなくなってしまう。

 自分だけが入れないのならばまだしも、自分が入場に手間取った結果、同じ列の後ろに並んでいる他者の入場を遅らせてしまったとしたら、気まずいことこの上なかろう。


 逆の場合もまた然りだ。

 例えば、運悪く、入場に手間取る人が前にいる列に並んでしまい、列が牛歩の如く遅々として進まなかったとしたら、それこそ目も当てられない。


 ちょっとくらい入場にまごつくくらいで何を大袈裟な、と思われるかもしれない。

 だが、数年前の〈夏兄〉で、予告もなしに入場セキュリティーが突然強化され、入場に携わる運営も、入場する観客も、こうした入場方法に不慣れであったせいもあるだろう、その前年までよりも遥かに入場に時間を費やしてしまい、その結果、かなりの人数が未だ入場を果たしていないのに、ライヴそれ自体は、そのまま時刻通りに開演された、という事があった。


 入場に遅れた者を〈夏兄〉は待っていてはくれなかったのだ。


 最初の一曲くらいで大仰な、と思わないでいただきたい。


 その時の最初の演者は、シークレット・ゲストで、その十年前に放映されていた、とあるアニメ内のユニットが、この日だけ限定復活というサプライズだったのだ。


 当然、間に合わなかった大多数の観客からは批判の声があがった。しかし、充分な入場時間を設けて、都度、たむろっている観客に入場を促しているのに、早めに入場しなかった方が悪いということで、不平不満は流されてしまった。


 この時、〈夏兄〉全通者のスギヤマは、イヴェ慣れし過ぎているが故に、開演の三十分前まで、会場の周辺で知り合いと駄弁っていた。しかし、いざ、例年通りのタイミングで入ろうとすると、入場列が牛歩の如く遅々として進まなかったのだ。

 ようやっと入場できたスギヤマが、入口から自分の座席エリアまで小走りし、息を切らせながら席に辿り着いたのは、一曲目のイントロが流れ出したのとほとんど同じタイミングであった。

 イントロが流れた瞬間に、まさかと思い、ユニットが登場した瞬間、会場全体が響めき、スギヤマは息を整えることを忘れて、跳び跳ねたり、リズムやメロディーに合わせて、身体を〈♾〉の字に揺すったりしながら、約十分間の、この日だけの特別な一時を享受したのだった。


 ちなみに、このスギヤマ独特の〈♾〉字形の横揺れは、知人のヲタク達からは〈スギヤマ・デンプシー〉、あるいは、〈スギヤマ・ロール〉と呼ばれている。

 さて、さすがのスギヤマも、一組目の出番が終わった後しばらくは、回復に努めなければならなかったのだが、それでも、開幕一組目のパフォーマンスに首の皮一枚で間に合ったのだから、まだ良い方なのだ。

 実は、直前までスギヤマと一緒だった知人の方は、列運が最悪で、シクレのパフォーマンスに間に合わなかった。


(さすがに、なんも言えないわ……)

 会場からの戻りの京浜東北線の中で、その日のシクレに関して語ろうとした時に、ツレから間に合わなかったことを告げられて、スギヤマは、二の句を継ぐことができなくなってしまった。

 

 こういったほろ苦い経験ゆえに、スギヤマはギリギリ入場が軽いトラウマになっていた。だから、入場には余裕を持つことにしている。

 会場周囲にいるのに、グダグダして、結果、二度とないサプライズに立ち会えなかったとしたら、それこそ目も当てられないだろう。


 これが、〈ミスター・夏兄さまー〉が、〈夏兄〉において早めに入場する、その理由なのである。

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