若き辺境伯の愛妾

 その人物を指すのに適した言葉は何か。


 女、女性、小娘、彼女。──彼女が一番しっくりくる。

 彼女は今日も、空をぼんやり眺めていた。


 玄関先に申し訳程度に造られたデッキ、窓の傍に置かれたロッキングチェア、ふかふかのベッド。気分によって場所を変えながら、ただただ空を見ているばかり。

 他にすることはいくらでもあるのに、彼女がそれ以外のことをする気配はない。ここから見えるものなんて、どこまでも続く空か、いくつもある木のてっぺんくらいしかないのに。

 構ってほしくてその手に、脚に、わざとらしく触れても何の反応もないから、色々好きにさせてもらう。前なら頭を撫でてくれたというのに、どれだけ触っても触り返してもらえない。

 昔と違って、俺と彼女の時間を邪魔する奴はほぼいない。許される限りずっと一緒にいられるのに、彼女にはこの幸せを楽しむつもりがないらしい。

 ──ねぇ、■■■。

 呼び掛けた声に返事がないのはいつものこと。ずっとこの繰り返し。


 朝が来て、夜が来て、朝が来て、夜が来る。


 そんな風に繰り返して何度目かの朝、そいつはこの家にやってくるのだ。

「ただいま、ラプンツェル。ご飯は食べてる?」

 今朝はデッキに座り込んで空を眺めていた彼女。そいつは爬虫類のように静かにここまできたらしく、いきなり黒い頭が見えて、次に胴体と脚が見えた。

「あぁ、オットー様」

 俺の時とは違いすぐに反応してもらったってのに、そいつは何故か少し淋しそうだ。

「顔色が悪いし、前よりも細くなった気がする」

「四日しか経ってないはずです」

「僕の気のせい? そんなわけない」

 そいつは彼女に近寄って、手を差し出す。

 その手とそいつを見比べた後、薄く笑みを浮かべて手を取り、立ち上がる。灰色の長い髪と夜色のドレスの裾がふわりと揺れた。

「今日は少し肌寒い。中に入ろう」

 君も一緒に、と声を掛けられたから、軽くパンチして、俺専用の小さなドアから先に室内に入る。後ろから、珍しい彼女の笑い声とあいつの慌てる声が聴こえてきて、若干気になったが振り返らず、それなりに気に入ってるベッドへと真っ直ぐ向かった。

 そこに丸まって落ち着いた頃、彼女達専用の大きな扉が開いて、二人が入ってきた。

「大丈夫?」

「大丈夫。大丈夫だから。……ほんと昔から、貴方とザークシーズは仲良くないわね」

「僕を下に見てるんだ」

「弟だと思ってるだけよ、あの頃の貴方はまだ小さかったから。……あぁ、すみませんオットー様。うちの猫がとんだ無礼を」

 仲の良い家族のように親しげな雰囲気が、一瞬で冷たく距離のあるものに変わる。

 気にしないでくれラプンツェルと言うそいつの声も、淋しげなものに戻ってしまい、思わず声を上げていた。


 違う!

 彼女はラプンツェルじゃない!

 俺の大好きな彼女の名前は……!


 どれだけ言っても、彼女達に俺の声は聴こえない。使う言語が違うのは本当に不便だ。

 彼女は椅子に座り、あいつが台所でお茶の用意をしている。

 申し訳なさそうな彼女が不思議でならない。昔は楽しそうに、お茶が運ばれてくるのを俺と待っていたのに。

「今日の茶葉は、妻が選んでくれたものでね、安眠効果があるらしい」

「……何だか、悪いです」

「彼女も君のことを心配しているんだ。悪いと思うならたくさん飲んでくれ。彼女の手作りクッキーも一緒にどうぞ」

 用意が終わったらしいあいつが、彼女の前にカップや皿を置いていく。

「そう、ですね。奥様によろしく言っておいてください」

 そのまま二人で仲良くお茶かと、フンと鼻を鳴らして、ベッドに顔を埋めた。


◆◆◆


 カップに口を付けようとして、ザークシーズのことを思い出す。

 彼にもお水とご飯をあげなきゃと視線を向けたら、彼はベッドに丸まって静かにしている。眠ちゃったみたい。呼吸するたびに上下するお腹が本当に柔らかそうで触りたくなるけれど、今はお客様が来ているからそちらの対応をしないといけない。

 クリソベリル辺境伯オットー・クロミッツ。

 私は彼の愛妾として生かされているけれど、褥を共にしたことはないし、求められることもない。

 領内にある森の中、高い高い木の上に造られたおうちの中で、飼い猫のザークシーズと共にクロミッツ卿の訪れを待ち、彼とお話をするだけ。

 今はそれだけでいいのだと、泣かれた。

『■■■はただ、ここにいてくれればいいから! もう変なこと考えないで! お願い!』

 既に二児の父だというのに、幼子のようにすがられては、私も何もできない。

 ラプンツェルという新たな名前を与えられ、外に一歩も出ることなく、ザークシーズと共にただただ無為に生きていく。──それを自覚するたび、生きる気力をなくすのだ。

「ラプンツェル?」

 物思いに耽る時間が長かったようで、彼に声を掛けられた。

 一言謝って、ザークシーズのお水とご飯のことを伝えたら、すぐに立ち上がって用意し始める。きっと謝っても、拒んでも、僕がしたいからと言われるんだろう。


 国防を担う辺境伯に──本来は公爵になるはずだった彼に、私は何てことをさせているのか。


 ほんの半年前、王が代わった。

 先代の王は国民のことをろくに考えない、誰かの血が流れることをたいそう好んだ悪辣な人間で、諌めるべき腹心の部下は存在せず、王と、王の祖父である公爵のせいで、国が荒れた。


 圧政に反発する者はいた。そういう者は権力に殺されていった。

 でも殺されなかった者もいる。それが今の王だ。


 最強の剣を引き抜き、武力智力どちらにも優れた仲間に恵まれ、邪龍と契約し、悪王を討つべく宮殿へと乗り込んできた。

 悪王を護る者なんていない。あっさりとその首は取られ、彼が──アーサー・レオンハートが王となった。

 悪王と共に圧政を強いた王の祖父、クロミッツ公爵は殺された。彼の子供や孫も殺されていった。

 次期当主であったオットー・クロミッツにもそんな未来が待っているはずだったけれど、アーサー・レオンハートに協力したことでその未来は回避され、辺境伯として今も生き長らえている。

 元々、オットーとアーサーは親しく、彼は祖父より友を選んだ。

 裏切り者と陰口を叩かれることもあるけれど、美しく聡明な妻、可愛くわんぱくな我が子に恵まれ、王の忠実なる家臣として、国防に励む。

 私のような女に構ってる暇はないはずなのに、暇を見つけては私の元にやってくる。

 来ないでくれと言ったらまた泣かれるんだ。最初にこのおうちで目を覚ました、あの時のように。

「……嬉しいニュースはありませんか?」

 忙しなく動く背中に訊ねる。

「どんな?」

「誰かが結婚した、とか」

「全く聞かないね。今はそんなことよりも、国の立て直しに外交の見直しと、やることがたくさんあるから」

 そう、とだけ言って、カップに口を付ける。

 少し温くなってしまったけれど、ほんのり甘いその味に、自然と肩の力が抜けていく。

 ろくに動いてないのに、何だか眠くなってくるほど。

「……他国の姫との結婚を進言してはどうでしょう。どちらの問題も解決すると思いますが」

「そんなこと言ったら、僕の首が飛ぶよ」

 半分くらい飲んでからクッキーにも手を伸ばすけれど、すぐ近くだというのになかなか手に取れない。

「早いこと、世継ぎを作った方が……国のことを、考えて……」

 頭に言葉を思い浮かべても、上手く声に出すことができない。

 机が近くなっていく。

 違う、私が近付いていってるんだ。

「……オットー……」

 何か盛ったわねと言えば、ごめんね姉さんと謝られた。

 それが最後の会話になった。


◆◆◆


 ヨルカ・クロミッツは国王と最初の妃との間に産まれた子供だった。


 世継ぎとなる息子を望まれる中、産まれてきた娘にえらく落胆した国王は、まだ次を望めるにも関わらずさっさと離縁し、別の女と再婚した。

 行く当てがないかに思われた元妃だったが、同じ頃に実家の公爵家にて、次期当主であった弟が急死し、他に後継ぎがいないこともあって、実家に戻り婿を取る。一年後には息子が産まれた。ヨルカの弟だ。

 王の庶子に身分を落とされ、耳に届けられる王の醜聞に顔をしかめながら、空いた時間に草花を愛でて苛立ちを静める毎日。

 自分と王にはもう、何の関係もないのだから。


 そんな日々の中で、ヨルカは一人の少年と、一匹の黒猫と出会う。


 彼は父違いの弟の従者であり、傷付いた黒猫の治療の為に走り回っていた。それに協力したことで、ヨルカと彼は秘密の友人となる。……友人、だったのだ、最初は。

 人目を忍んで話をした。黒猫や草花を共に愛でた。時が経つにつれて友情は、別のものに変わっていく。


 この人以外に考えられない。

 この人の手を取りたい。


 どれだけ願っても、逃げる為に手を差し伸べてくれることはなく──別の者達に手を掴まれた。

 ヨルカに流れる血が、王とヨルカの関係をなかったことにはしない。

 王には結局、息子が産まれることはなく、ヨルカの後に産まれた娘達は、全員殺されていた。

 ヨルカがこの国の王になるしかなかった。


『娘を産んで離縁されたと聞いた時は、そのまま朽ち果てろと思ったもんだが……良いタイミングであいつがくたばってくれたもんだよ。おかげで私は、王の祖父だ!』


 嬉しそうな祖父の声が耳から離れない。


『他の娘達はもちろん、こじつけで玉座を盗みかねん奴らの始末も済んだ。後は孫を、我が孫を、玉座に……!』


 敵は誰か?

 誰が悪い?


 刃物を握ろうとした手に、触れたのは温かな舌。

 何度も何度も指を舐められ、ヨルカは考え直す。

 自分のやろうとしたことでは生温い。これでは祖父は止まらない。それこそこじつけで、弟が利用されるかもしれない。

 他に思いついたことは、とても人の所業とは思えないこと。

 それでも、あの祖父を止めるにはこれしかないと──玉座に腰掛けたその日、ヨルカは悪へと身を落とす。

 心を殺すしかない日々。耐えられたのは黒猫のおかげ。黒猫達がいなければ、ヨルカは祖父の人形に成り果てて、自分の意思で、祖父の野心を止めることなどできなかったはず。

 もしくは、にすがりついたはずだ。

 もう嫌だ、助けてくれと。

 そんな誘惑にかられながらも、国を傾けることに邁進し続け──あの日、に刃先を向けられたその瞬間、ヨルカの全てが報われる。

 弟のことが気掛かりだったけれど、数日前に間諜として他国に送っておいたから、どうにか逃げてくれるはず。そう自分に信じ込ませて、刃を受け入れるべく瞼を閉じた。


 次に目が覚めた時にはおうちの中。

 傍には泣きじゃくる弟。


 全て終わったんだよと、ヨルカに──私に言って、ラプンツェルという新しい名前をくれた。

『姉さんはただ、ここにいてくれればいいから! もう変なこと考えないで! お願い!』

 目的を完遂すれば土のベッドに眠るのだと思っていた私は、オットーの願い通り、辺境伯となった彼の愛妾という名目で、このおうちに囲われる。

 ──若き辺境伯は独占欲が強く、妻よりも深い愛情を向けられた妾は、誰の目にも触れさせたくないと木の上に閉じ込められた。暇を見つけては行くほどの熱心さ、庶子ができる日も遠くない。


 今も昔も、仲の良い異父姉弟。

 関係が変わることなどありえない。


 だけど、どうだ。

 薬を盛られ、目が覚めれば、私はふかふかのベッドの上。

「起きたのか?」

 弟じゃない。

 二度と聞くこともないと思っていた声だ。

「オットーから君の様子を聞いた限り、いつか身を投げそうだったから、我慢できずに連れてきてもらったんだ」

 額を、頬を、触れられる。

 二度と感じることもないと思っていた温もりだ。

 拒みたくても腕は動かない。

 動かせない。

「──ヨルカ」

 ラプンツェルだと、訂正する気力も湧かない。

 この先ずっと、彼は──アーサーは本当の名前で呼んでくるんだ。

 昔のように、笑みを浮かべて優しく、私の名前を。

「もっと早くこうするべきだった」

「……お、そい」

 今や私も彼も、全身血塗れだ。

 それを理解しながら、それを無視して、笑い合う。

 まるでお互い泣いているようだなとぼんやり思いながら、近付いてくる彼への返事として、瞼をそっと閉じた。


◆◆◆


 空と木のてっぺんばかりの日々は終わったらしい。

 ヨルカはまた、俺だけのヨルカではなくなった。


 あいつに無理矢理連れてこられたその場所は、まるで昔、ヨルカが王様だった時みたいな部屋。そこら辺で爪研ぎすると死ぬほど怒られる嫌な部屋。

 前の所ではヨルカに怒られなかったのにとムカムカするけれど、戻りたいとは不思議と思わない。

 だってここにいるヨルカは、よく笑うようになったし、好きなことを好きにしていて楽しそうだ。

 俺の大好きなヨルカ。

 ヨルカは幸せにならないといけない。

 足にすり寄れば頭を撫でてくれる。けれど最近はだっこしてもらえない。

 ちょっと淋しく感じるが、撫で返してくれるだけマシだと思わないと。

「──ヨルカ!」

 あ。

 俺とヨルカの邪魔をする奴。

 あいつの時はたまにだったのに、邪魔者は毎日来るから嫌だ。……でも、

「アーサー!」

 邪魔者が来た時、ヨルカがどんな時よりも最高の笑顔をしてくれるから……我慢するしかない。

「また来たの、心配性ね。大丈夫なのに」

「君の顔を見て安心したいだけなんだ。俺の好きにさせてくれ」

「仕方ない人ね」

 ぺっ!

 やっぱり面白くないから、邪魔者の足にパンチをお見舞いして、すぐに部屋から飛び出す。

「ちょっと、ザークシーズ!」

 怒ったヨルカも可愛いな。

 振り返ってその顔を見たくなるけれど、足は止めない。

 この前理想的な爪を研げる場所を見つけたんだ、ヨルカはしばらく預けるから、その間に研がせてくれよ? ……アーサー。


「……行ったな」

「そうね。ところで、アーサー。書庫の扉は閉じられてる? それに窓も」

「何故?」

「あの子最近ね、本にとってもご執心で……アレ」

「誰かー! 書庫に向かえー! 本が、本がぁぁぁぁぁぁぁ!」

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