四季坂雪夜の名付け問題

 最近ね、可愛い黒猫ちゃんを引き取ったの。

 本当に可愛いのよ?

 ──ねぇ、見に来ない?


◆◆◆


「名前を付けるべきか、そのまま猫と呼ぶべきか、それが問題なのよ」


 とある土曜日、黒蜜夜花は母方の叔母の家に遊びに来ていた。

 何年か前に夫を亡くし、子供もいなかった彼女は、一人静かに亡夫と暮らしたマンションの一室でそのまま過ごしていたはずだが、久し振りに夜花から連絡をしてみた所、いつの間にやら新しい家族を迎えていたようで。


『旦那様のお友達の小説家がね、猫ちゃんを飼っていたのだけど、避妊手術をし忘れていたみたいでね、知らない間に妊娠していたんですって。偶然お会いする機会があって、その時にそんな話をされたものだから、一匹引き取らせて頂けないか訊いてみたの』


 叔母は猫を飼ったことがあるのかと少し気になったが、子猫が産まれるまでに、その作家に色々指導してもらったり、おすすめされた本を読んだりと、できることは何でもやったようで。

 実際に家に迎えて、想像していたよりも大変なことももちろんあったけれど、それ以上に、黒猫が可愛くて仕方ないのだと語るその溺愛振りに、夜花はこっそり安堵する。

 夫を亡くして以来、叔母の心から楽しそうな様子を見てこなかったものだから。

 やっぱり淋しかったんだなぁ、なんて夜花が思っていたら、ただね、と叔母はその顔を曇らせ、迷いを口にしたと。


「ほら、私ったら小説家の妻じゃない? しかも文豪とか呼ばれてた人の」

「でし、たね」

「それなら、名前を付けない方がいいのかしらって、思うわけよ」

「……え?」

「え?」


 顔を見合わせ、首を傾げる少女と美女。

 二人はリビングのソファに横並びに座り、その間で、名前はまだない黒猫が、夜花の膝に猫パンチをしていた。

 何かを探るように、慎重に、何度も。


「雪夜さんが、飼うんですよね?」

「そうよ?」

「雪夜さんが飼うなら、別に名前を付けてもいいと思うんですけど……」

「でも私、文豪の妻だし」

「……うーん」


 でも、その文豪はもう……とか言いづらい夜花。

 本人の預かり知らぬ所で飼うわけだし、好きに名前を付けてもいいと夜花は思うが、それを本人にどう伝えるべきか。


「……昔と違って、名前がないと不便なこともあるんじゃないんですか? たとえば、動物病院で診てもらう時とか」

「この前初めて行った時、猫でいいですって言ったら、四季坂さん家の猫ちゃんって呼ばれてたわね」

「……初回ですし、それで何とも思われなかったかもしれないですけど、回数重ねていったら不思議がられませんかね、何で名前付けないのかって」

「そんなの気にしなければいいのよ。……というか夜花ちゃんは、名前は絶対に付けるべき派なのね」


 じっとりとした目で見つめられ、思わず視線を逸らす夜花。

 そんな目を向けてくるということは、もうかなり、命名『猫』に気持ちが傾いているらしい。

 飼い主は叔母なわけで、たまたま今日訪問しただけの夜花に、それも次にいつ来るかも分からないというのに、黒猫の名付けにどこまで踏み込めばいいものか……。


「……ぷにぃ」


 件の黒猫が鳴く。

 猫の鳴き声として、それは合っているのか?

 分からない、分からないけれど──以前にも聞いたことがあるような気がするので、そんなことは気にしない夜花。

 いつの間にか猫パンチは止まり、慎重に、夜花の膝の上へと登り、そのまま丸くなる。

 ちょっとだけ重くて、温かい。

 無意識に夜花の手は黒猫の背へと伸びていき、気付いた時には撫でていた。

 硬い骨にも当たるけれど、黒猫の背は想像以上に柔らかくて、黒猫が呼吸するたび、振動が手から伝わってくる。

 ……可愛い。

 弧を描くその口で、叔母に、黒猫に、伝えようとしてハッとする。

 この子、可愛いですね。

 それでも十分通じるものの、どうせなら──黒猫の名前と共に、そのことを伝えたかった。

 その方がより、黒猫への愛おしさが増すのではないか?


「……っ!」


 言わなければ。

 夜花は顔を上げ、叔母と目を合わせようとする。

 叔母はこちらを見ていなかったが、それでも、言わなければ。


「あの」

!」


 ……おや?


「どうしちゃったの! 私のお膝の上には全然乗ってくれないのに!」


 夜花は、叔母の視線の先を辿る。

 ……自分の膝の上、おそらくは黒猫。

 そろそろアラフォーになるかどうかなのに、まるで少女のような怒り方をしている。


! ほらほらほら、私の膝空いてるのよ、乗っていいのよほらほらほら!」

「……雪夜さん」

「もーなあに? 今ちょっと忙しいのよ、分からない?」

「この黒猫のことですか、たんたんって」

「そーよ、たんたん」

「……」


 自分達は何の話をしていたっけ、と一瞬夜花はフリーズしたが、本人よりも先に夜花の口の方がそれを思い出したようで。


「名前、付いてますね」


 そんな言葉が零れ落ちていた。


「あー、最初はね、猫って呼んでたの。だって文豪の妻ですもの。でもね……ほら、この子可愛いし、可愛くて、可愛いものだから、猫って付けるようになって。でも気付いたら猫が取れててになってね、うっかり菊見先生……あ、この子の母猫を飼われてる、旦那様のお友達なんだけど、その方と電話してる最中にいたずらしてたから駄目よたーんって言ったら、回るのですかって何故かすごい食いついてきて。どんな風に回るのですか、どんな時に回るのですかって、ちょっとうるさかったものだから、違いますこの子はたんたんですって勢いで言っちゃったの。だからそれ以来迷っていたのよ」


 言い終わると短い溜め息をもらし、黒猫を見つめる瞳に憂いが帯びる。


「たんたんにしちゃうか、初志貫徹で猫にす」

「たんたんにしましょう」


 夜花は食い気味に言った。


「たんたん、可愛いです」

「え、でも私は文豪の」

「たんたん呼びと猫呼び、どっちが多いですか?」

「…………………………たんたん」

「たんたんにしましょう」

「で」

「たんたん」

「……で」

「たんたん」

「……」

「たんたん」


 結局、夜花の叔母、四季坂雪夜は姪の押しに負けた。

 時間も考えずに話し合った末、四季坂家の黒猫は──四季坂たるとたたん、愛称たんたんに決定した。


「名前を付けてもらって嬉しいね、たんたん」

「……うーん」


 本当に、これでいいのか。

 頬に手を当て、首を傾げながら、夜花と、夜花の膝で丸まる愛猫たんたんを見つめる雪夜。

 たーんたん、たーんたんと夜花が連呼しながら撫でるたび、愛猫たんたんは嬉しそうにぷにぃと鳴く。


 ま、いっか。


 そんな風に片付けて、雪夜も自身の愛猫を撫でるべく、その手を伸ばした。

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