第4話 2020年―③
丸一日降り続いた雨で、またしてもお日様の光を拝めないジメッとした一日が終わろうとしている頃、夕食の支度を終えた千日が一念の様子を見にリビングから出て来た。
エントランスに差し掛かり、外灯の点いていない薄暗い玄関先に気付き、スイッチに手を伸ばす千日。
「パチン!」
あれ?・・・。
「パチン!パチン!」
いくらスイッチを入れなおしても外灯に明かりは灯らず玄関先は薄暗いまま。
まるで、今の千日の心を投影しているかのようだ。
建付けが悪くなり、しっかりと押し込むように閉めないと開いてしまう、四畳半の半開きのドア。
そのドアの隙間から、そっと中の様子を窺う妻。
昼間、無言で部屋に戻った夫の機嫌が、未だ心に残っている。
傍から見えるその姿は怪しくもあるが、内情を知る者から見れば、しおらしくも見える。
気配を察知してか、はたまたキッチンから妻と共に流れ出てきた香しい夕飯の匂いが鼻先を掠めたせいか、千日が声をかける前に一念は半開きのドアに振り向いた。
目が合う二人。
バツが悪い千日。
どこからともなく吹いた隙間風が、容赦なく内開きのドアを押し開き、直立不動で覗き込む千日の姿を露わにした。
「ププッ・・・。」
その姿に思わず吹き出す夫。
「ご飯?」と笑顔で聞き返す。
「はい・・・。」
らしくない、蚊の鳴くような声の千日。
なんとも言えない、絶妙なタイミングで露呈された恥ずかしさと情けなさに頬が赤く染まる。
「わかった。すぐ行くね。」と、パソコンに向き直り電源を落とす旦那。
「さ!ご飯だ♪ご飯だ♪」と、上機嫌でリビングに向かう。
「あ!パパ!」
呼び止められて「ん?」と、振り向く一念に、千日は神妙な面持ちで昼間のことを謝った。
それでか・・・。
先ほどから、食欲を駆り立てる炒め玉ねぎの甘い香り。
それを引き立てるように生クリームとスパイシーなカレーの香りがあとを追ってやってきている。
今日の夕飯は、一念の大好物。
チキンクリームカレーだった。
今夜のメニューチョイスに納得をした一念。
あの時無言で部屋に戻ったのはそういう意味ではなかったのにと、同時に申し訳ない気持ちにもなった。
「こっちこそ、ごめんね。」
真正面に向き直り、謝り返す夫の放った大好きな笑顔に、今日一日凍てついたままだった心が一気に解きほぐされ、安堵する千日。
ジンワリと潤んでくる瞳を見せまいと俯き加減になりながら、必死に首を横に振る。
「わるいのは・・・私だから。」
声をつまらせながらも応える千日。
そっと頭に添えられた一念の大きく温かな手のひらが、溢れそうな千日の瞳に追い打ちをかける。
「そっか、そっか。僕の態度がママに勘違いさせちゃったね。ごめん。」
こらえきれずにこぼれた涙を慌てて両手で覆い隠す妻。
「でもね、ママ。違うんだよ。」
一念は妻をそっと抱き寄せ、幼子をあやす様に柔らかく語り掛ける。
「僕は、怒ってないから。大丈夫だよ。」
夫の胸に埋もれながらも溢れる涙を必死に抑え、小さく微かに頷く千日。
泣き止むまで、小降りになった雨音に一念はしばらく耳を傾けている。
「ママ。そのままでいいから聞いてくれるかな。」
シトシトと降り続いていた雨が、いつの間にか叩きつけるぐらいの本降りになっていたころ、次第に呼吸が整い始めた千日に、一念はあの時の気持ちを静かに伝え始めた。
「僕はね、安心したんだ。二人を見ていたらさ。なんだろね。なんか頼もしいというか、逞しいというか・・。」
目と鼻のまわりは赤く、いまだ瞳を潤ませたままの千日が、ようやく一念の胸から顔を上げて「頼もしい?」と聞き返してきた。
「うん。頼もしいよ。ママも、はるも。」
「そっかなー・・・・フフッ・。」
その言葉をしばらく考えるそぶりを見せ、ようやく綻んだその笑顔に、一念もホッと安堵の笑みを浮かべる。
「逞しいは、なんとなくわかるんだけどね。」
そう言って、二の腕を見せる妻。
一念はその逞しい二の腕の下肉を、指でぷにぷにと無表情でつまんだ。
「やめてよ。」
「え?」
ぷにぷに。ぷにぷに。
「やめなさいって。」
「へへへっ」
ぷにぷに。ぷにぷに。
見た目以上のその柔らかさに、言い知れぬ悦びを覚える一念。
拒みながらも幸せそうに笑う妻に、その手を止めず何度もしつこくぷにぷにする。
リビング手前でじゃれ合っている二人。
そんな二人の間を、身をもって過酷な現実を知ってきたばかりの娘が、割って入った。
「ただいま‼」
その声と同時に、ガチャリと開いた玄関のドア。
た!ただいま⁈
驚き振り向いた一念の視線の先には、本降りの雨が降りしきる、真っ暗な表玄関を背景に、ずぶ濡れの娘が雫を滴らせて佇んでいた。
「いやー・・・まいったさ。」
ぽたぽたと、雫をたらしながら一歩を踏み入れる娘。
家に入るなり感情を吐き出し、ふと面を上げた先に、父がいたことに驚く。
「お!パパ!」
「おかえり。ってゆーか、どこ行ってたの?こんな雨の中。」
ずぶ濡れの娘に、未だ驚いている父。
「え?どこって・・・。」と、後ろにいる母に目を向ける。
「あ、あのね、パン買いに行ってもらってたの。ロールパン。」
買い物に出ていた娘のことをすっかり忘れていた。と、顔に書いてある母。
慌ててバスタオルを取りに奥へと走った。
エントランスに取り残された父と娘。
見たところ、思っていたよりも遥かに機嫌の良い父。
少々赤かった母の瞼は気になるが、一番気になっていた父の機嫌が母の思い過ごしだったことに、娘もまた、胸をホッと撫でおろす。
「大変だったね。今夜はチキンクリームカレーだから、ロールパン買いに走ってくれたんでしょ?ありがと。」
「コンビニ出たらさ、いきなりどしゃ降りになるんだもの・・・・・あ、はい。」
そう言って、パンの入ったビショビショの袋を差し出す娘。
「うお!ビショビショだ。」と、滴る雫を掬うように父は両手でパンを受け取った。
「はるちゃんもビショビショだ。先にお風呂入っちゃえば?パパ沸かしてくるから。」
「え?うん・・・ありがと。」
思いも寄らない父の言葉に、冷えた心と体が徐々に温もりを取り戻すのを感じ取る娘。
パンから滴る水を手で受けながら、奥に入っていく父の背中を見つめ、入れ違いで母が持ってきたバスタオルで顔を覆い、出迎えてくれた我が家の温もりを心から噛みしめた。
「ありがとうね。はる。」
そう言って、持ってきたもう一つのタオルで、そっと子供の涙を拭うように、娘の濡れた髪にタオルをあてがう母。
娘はバスタオルで顔を覆い隠し、小さく「うん。」と、頷いた。
「ありがとう。」母が何度も言うたびに、娘もまた、何度も小さく頷く。
父の「お風呂沸いたよー!」という奥からの声がかかるまで、何度も何度も。
バスタオルでその顔を覆い隠し、何度も娘は小さく「うん」と、頷いた。
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