第4話 2020年―②

 お気に入りの作業用BGMをイヤホンに流し、黙々とキーボードを打ち込み続ける一念。


千日が部屋に入ってきたことも気付かず、ひたすらに目の前のモニターに向き合う。


そんな一念の傍らに寄り、トントンと肩を軽く叩く妻・千日。


 !


「ん?」


振り向いて、一念は片耳からイヤホンを外す。


そんな振り向いた一念に、千日は眉を上げて「なに?」と声をかけた。


 はて?声をかけておいて「なに?」とは?


大きな疑問符を頭上に掲げる夫。


「なに?」と、その言葉をそのまま返す。


なに?のなに?返し。


「なにって・・・。」


なに?返しに少々気分を害する妻。


「え?・・・。」


夫はそんな妻の顔色に敏感に反応じ、もう片方の耳からもイヤホンを抜き取り、一瞬だけ不機嫌な色をチラつかせた妻に向き直る。


その姿勢からは、叱られる体勢を整えたように、見えないでもない。


「え?って、パパ呼んだから来たのに。」


 呼んだ?僕が?


夫の頭上に、もう一つの疑問符追加。


「ママー!はるー!って・・・・・あれ?」


はてな?の多い、夫の様子に妻の顔にも疑問符浮上。


「え?・・・。」

「え?・・。」


四畳半の部屋に、行き場を失くしたが漂う。


「あれ?・・呼んで、ない?」

「うん。」

「あ・・そう。ま、いいや・・・。」


なんだか解せない妻。


キッチンで昼食の後片付けをしている最中に、確かに聞こえた「ママー!はるー!」と叫ぶ主人の声。

しかしこれ以上、勘違いかもしれない取るに足らない事で仕事の邪魔をするのは忍びないかと、千日は首を傾げながらもそそくさと部屋を出た。


「ごめんね。お仕事中に・・・。」


そう言って扉を閉めようとしたら、もう一つだけ、訊ねておきたいことが頭に浮上した。


「あ、そうだ。エントランスに水・・・なんて、こぼしてないよね。」


これもまた、仕事中の旦那に聞くことではないなと、口にしてから気付き自責の念に駆られる妻。


改めて「ごめんなさい」とその思いを伝えると、、静かに扉を閉めて姿を消した。


 なんだったんだろう?


謎の多き妻の振る舞いに首を傾げ、改めてパソコンに向き直る夫・一念。


イヤホンを耳に、再び仕事に集中しようとしたが、ふと目に浮かんだフローリングに溜まる水溜まりの情景にその動きがピタリと止まった。


父親から譲り受けた時、すでに年季の入っていたこの家を受け継ぐ一念には、思い当たる節があったからだ。


一念はばかりのイヤホンを再び外し、妻の後を追うように四畳半の部屋を出た。


「ママ、濡れてたのってどこらへん?」


リビングで、ソファーに体を預ける二人に、一念は先の状況を細かに尋ねる。


妻はエントランスを指さし、娘は幾つかあった水溜りの大きさを指で模り、それを伝える。



エントランスの床を見つめ、その場で視線は空を辿り、二階までの吹き抜けた天井に眺め入る一念。


「この家も古いからなー。」と、煤けた天井のシミに見入る。


「この季節に、まさかの雨漏り?」


後に付いてきた千日も、心配そうに一念に倣って天井を眺めた。


「んー・・・。」


見たところ、天井から水が滴り落ちている気配はない。


それとも、素人目にはわからない程の雨漏りなのだろうか。


二人は素人ながらもあらゆる事態を模索し、目を皿のようにして、しばらくの間、天井に眺め入る。


老いた首筋がそろそろ限界を迎えようとしたころ、いつまでも帰らない母を案じて後から追いかけて来た娘が、玄関の三和土を指差し二人に告げる。


「パパ、ママ・・・あれ。」


娘のその言葉に、反射的に下りた首筋がピキッ!となった父と母。


「あいたっ!」

「あいたっ!」


夫婦めおと仲良く“あいたっ!”とハモる。


首筋を押さえ、娘の指差す方を覗いてみると、そこには父・一念の普段履きのサンダルが、ずぶ濡れのまま乱雑に脱ぎ捨てられていた。


 なんで?・・・・・。


今日はまだ、一度も外に出た憶えのない一念。


それに、普段でも乱雑に脱ぎ捨てるようなことなど、まずしない。


よっぽど慌てていた時か、自分以外の誰かが履いた時か・・・。


念のため二人に父のサンダルで表に出たか聞いてみるが、二人は案の定、首を横に振る。


降りしきる雨と曇天が不気味さを増し、一念の心を言い知れぬ恐怖に陥れる。


「ゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・。」


背後から、薄気味悪い効果音を絶妙なタイミングで口遊む娘。


大好きな少年漫画へのオマージュか?


「なに?それ。」


しかし、知らない人には意味不明で奇怪な言動。


振り返れば、娘は大きく仰け反り手足の関節を変にひねった独特な立ち姿で、その場に佇んでいた。


そんな娘の立ち姿を、怪訝な顔で見つめる父親。


「だから、なんなの?それ。パパちょっと怖いんだけど。」


原作を知らない父には、娘の振る舞いがただただ異様に見えているだけ。


そんな二人のやり取りを目にして、「フッ!」と軽く、鼻で笑う母。


時折、リビングに放置しているその少年漫画を、小言を呟きながらも片しついでに目を通して知っている千日には、感化され過ぎた娘が憐れに見えているだけ。


「バーカ。」


母が罵った。


「バカっていうな!」


予想以上のシラケた場の雰囲気に居場所を失くしたうえ、軽く母に罵られた憐れな娘。


しかも言い方がむちゃくちゃ腹立った。


娘はパシン!と感情のまま、母に八つ当たりする。


「ちょっと!なんで叩くの!叩くことないでしょ!」


奇跡的にも、咄嗟にその腕を掴まれた想定外の母の運動神経!


焦った娘は「パパ!パパ!」と卑怯な手段に打って出る!


ズルい小娘。


怒り露わの母・千日。夫になんとか宥められ、振り上げたその手の平を渋々と下ろしはするが、憤りはまだ燻ぶったまま。


それなのに、よしゃあいいのに、なおも娘は父の陰で顎をしゃくらせ微笑んで、爆発寸前の母をおちょくり返した。


千日、憤怒炸裂!


もう一念には、なす術がない。


調子に乗り過ぎた娘を、自業自得と差し出すのみ。


娘、報いを受ける。


すぐそばで、バトルを繰り広げる妻と娘をよそに、一念は気を取り直し、濡れた足跡の再捜査を始めた。


二人の証言では濡れていたのはエントランスまで。


エントランスを挟んで東には自分が居た四畳半。

西側は、廊下を北に進んで左手にリビングとダイニングキッチン。

更に進んで右手奥に二階へと通じる階段。


誰かが侵入していれば、二階にたどり着く前に、リビングに居た二人に気付かれるはず。


この家の間取り上、エントランスから先へは、家人の許可なしには踏み込めはしない。


「ねえ、はる・・。」


千日に羽交い絞めにされた娘に、エントランス以外に水は落ちていなかったのかと、一念は尋ねる。


「うぅ・・・なかったと・・思います。」


締め付けに耐えながらも、くぐもる声で答える日和。


「ギブか!ギブなのか‼」と、キメたその手を緩めないまま、千日もあとから追って答えた。


「エントランス以外は・・くっ!・・濡れてなかった!どうだ!もうやんないか‼」

「ノーギブ!ノォーギブ!」


動くたびに、軋む関節。


このままだと、落ちるのも時間の問題。


それでも娘、音を上げない。


案外根性はあるのか?それともただの負けず嫌いなだけか?


しかしまあ、いったいいつまでこの母娘おやこは、悩める父を放ったままバトっているつもりだろうか?


二人の証言により、父の推理はますます暗礁に乗り上げたというのに・・・。


さっきの少年漫画じゃないが、ここまで来たらあとは人知を超えた力が作用したとしか思えない。


ふと、汗だくになって組み合う二人に、目を遣る一念。


「・・・・・・・・・・・。」


一念は、考えることを放棄し始め、しばらく二人に眺め入った。


見つめる一念に目を配りながらもなお、いつまでもその攻防からは、気を抜かない母娘おやこ


そんな二人を見詰め続けているうちに、いつしか一念は、真剣に悩んでいる自分の姿に虚しさを覚え始めた。


 なんだろ・・・なんかこの二人のタッグなら、なにがあっても平気な気がするな・・・・・。


ハアハアと、呼吸を乱して組み合う母娘に、その逞しさと安心感を覚えた一念。


一念は二人をその場に放置して、無表情のまま何も言わず、仕事に戻った。


「あれ?・・パパ?」


拍子抜けな夫の態度に、キメた関節から力を抜く千日。


「パパ・ハァハァ・怒っちゃったかな・ハアハア・・?」


乱れた呼吸を整えながら、度が過ぎたかと今になって後悔し、その表情に陰りを見せる。


「ママ・ハァハァ・。」


同じく呼吸を乱し、滴る汗を手で拭う娘が、母の肩にそっと手を添えて言う。


「後悔・・先に立たず。だね。」


その言葉、お前が言うか?


二人は黙り込み、無言のまま部屋に籠った父の背中を、気に掛けるのだった。



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