第22話 すべて―①

 おじいちゃんが去った病室。


その扉はなんの前触れもなくスゥーッと開き、誰が通るでもなく、再び音も立てずにスゥーッと閉じていく。


もちろん一念には、念徳爺さんが病室を後にした、ごく普通の光景ではあるが、その念徳爺さん本人がまるで見えていない千日にとっては、まさに身の毛もよだつ怪奇現象。


千日はその光景を、目ん玉が飛び出しそうになるくらいに見開いて凝視していた。


「うぉぉぉぉ!マジかっ!マジかっ‼」


恐怖を募らし、この場から一刻も早く逃げだそうと、チューブだらけのその不自由な体で眠る娘を脇に抱え、ベッドの上でジタバタと慌てふためく母・千日。


一念は半ば笑いながら、「ママ、大丈夫だから!あれはそんなんじゃないから!」と、千日を制止する。


「え⁈だってさ!あれってそうじゃん!そうゆーことじゃん‼ いるよ・・・ぜったいいるよ・・・。」


ドギマギしながらも、自分を支える一念の腕に必死にすがりつき、怯えるその眼差しで部屋中をキョロキョロと見回す千日。


千日のその手を取り、「大丈夫だから。大丈夫だから。落ち着こうママ。まずは一旦落ち着こう。」と、一念はパニックっている妻を懸命に諭す。


「もうやだよ。私もうここやだよパパ・・・。帰ろうよぉ。一緒におうち帰ろうよぉ。」


半べそをかいて一念に懇願する千日。


しかしその言葉に、すがるその手から力がフッと抜けていくのを、千日は同時に感じ取る。


「?・・・パパ?・・・。」


振り向くと、一念の顔からは笑顔が消え去り、その表情には絶望の陰りが姿を現し始めていた。


「パパ⁈・・・パパ⁈・・・。」


絶望に苛まれ、心ここに在らずの一念。


千日は慌ててその手を揺り動かし、夫を懸命に呼び覚ます。


一念はすぐにフッと我に返り、すがる千日のその手を力強く握り返した。


その様子から、再び夫を失う恐怖に襲われる千日。


すがるその手に無意識に力が入り、気付いたら一念に「やっぱりいやだ!」と、言い放っていた。


「ママ?・・・。」


千日のそのセリフに困惑する一念。


千日は一念の気持ちも考えず、思いの全てをぶちまけてしまった。


「やっぱりやだよ!だってそうじゃん!まだ五十前だよ!パパも私も。だってまだ中学生じゃん!早すぎると思わない?納得できないと思わない?私は納得できないよ!こんなの!受け入れられるわけないよ‼」


そう言い放つと、千日は潤む瞳で一念をジッと見詰めた。


「ママ・・・。」


久々に、感情を露わにした千日に呆気にとられる一念。


思えば千日は、妻となってからはを通すことなどほとんどなかったと、今となって一念は気付く。


千日は更に思いの丈を、呆然と見詰める一念にぶつけた。


「パパ、言ってくれたよね?絶対一人にしないって!だから一緒になろう。僕と家族になろうよって!そう、約束してくれたよね!」


 そうだった・・・・僕は言ったんだった。


それが一念の、プロポーズの言葉だった。


露わになった千日の感情に当惑し、何も言えずに俯いたままの一念。


何度か弁解を試みて口を開きかけるが、適当な言葉が見当たらず、結果一念はずっと俯いたままになってしまった。


薄暗い病室に、しばし流れる沈黙。


一念はそのかんも、なんて言えば千日は納得してくれるだろうかと、思いを巡らしていた。


しかし、何を言っても千日は納得なんてできないだろうと結論付けると、こんな時はいつも、この子が助け舟になってくれたっけかなーと、ふと、静かに寝息を立てる娘に、その視線を移した。


愛おしく、娘を見詰める一念。


「よく眠ってるでしょ?」


その表情を見て、千日が沈黙を消し去った。


「きっとこの子、あんまりよく眠れていなかったんだと思うわ・・・。」


千日は攻めたつもりはなかったが、一念にはその言葉が、心に重くのしかかる。


そして、愚かな自分を悔いて呪った。


「ごめんね・・・パパ。」


唐突に謝る千日に、一念は顔を上げて「どうして?」と、訊ねる。


「好き勝手、パパのこと攻めちゃって・・・。」


そんなことないよ・・・と、一念は瞳を閉じて静かに首を横に振る。


「私はダメだね・・・。」


「どうして?」


「う~ん・・・ダメな人間だから?」


「そんなことないよ。」


一念は咄嗟に、千日のその言葉を否定した。


「なんでそんなこと言うの?ママはダメなんかじゃないよ。やめてよそういうこと言うの・・・。」


「ダメだよ・・・私は・・・。」


しかし千日は、一念のその言葉を再び覆す。


「私はダメな妻で、ダメな母親・・・・。」


いつものらしくない千日に、一念は哀しい顔を露わにした。


「なーに?なんでそんな顔するの?そんな顔しないでよー・・・。」


そう言って、千日は一念のその表情から哀しみが消えるようにと、そっと手のひらを当ててをかけた。


「だってママが、らしくないこと言うからさぁ・・・。」と、一念も千日のその手を取り、同じように優しく摩り返す。


「だって、私はダメなんだもん。」


そう言って、一念にニコッと笑顔を見せる千日。


「私はダメな女なの。ダメだから、パパに笑顔貰って、に元気貰って、今まで生きて来れたの・・・。」


「ママ・・・。」


千日は嬉しいことを言ってくれた。


言ってはくれたが、いまの一念には正直素直に喜べないところもあった。


それでも、一念は今できる最高の笑顔を千日に贈った。


それを見て、同じく千日も今できる最大限の笑顔を一念に返す。


お互いに微笑み合って見つめる二人。


二人はその笑顔に、またいつでも会えるようにと、瞳の奥に焼き付けるように、ずっと笑顔で見つめ合った。


「楽しかったね。」


「うん。」


「ありがとうね。」


「うん・・・僕も、ママにありがとうだよ。」


そう言って今度は一念が、いまある思いの丈を、千日に打ち明け出した。


「ママ、あの時僕を見つけてくれて、ありがとう。」


「え?・・・あの時って?」


そう言って首を傾げる千日。


 え?・・まさか?


一念は、思い出深いあの日を忘れられたのかと、一瞬不安になる。


「あの時だよ。僕が学食でタンメン食べてたあの時。」


未だその日を思い出せないのか、千日は空を向いて記憶を思い返す。


まさか、本当に忘れてしまったのではないだろうか?・・・。

その心の懸念が傷心に変わりつつある一念。


「ほら!僕がタンメン食べてたら、ママが友達と来て、いきなりテーブルずらした、あの時だよ!」


「あぁ!あの時ね!」


「そう!あの時!・・・ふぅー・・・。」


ようやく思い出してくれたかと、一念はホッと胸を撫でおろす。


「フフッ・・・あの時だったか・・・フフフッ。」


千日はそう呟くと、その笑顔を隠すように、そっと一念から顔を背けた。


しかし千日のその呟きを、一念は聞き逃さない。

一念は「え?・・・なに?・・・。」と、その含み笑いの意味を、千日に訊ねた。


「え?・・・うん・・・。」


はじめはその問いかけに難色を示した千日。


しかし執拗な一念のその眼差しに、すぐに観念することとなる。


「う~ん・・・。だってパパ。あの頃ずっと、あの席でタンメンばかり食べてたじゃない。“僕がタンメン食べてたあの時”って言われても、私にはいつだかわかんないよ。」


千日は笑いながら、一念にそう答えた。


「え?・・・え?・・・・。」


そう言われても、千日がなんで分からず、しかも未だにニヤニヤとその顔に笑みを浮かべているのか、一念にはまったく、その理由がつかめなかった。


一念は空を見詰めながら何度も千日に振り向いて「え?・・・え?・・・・。」と、怪訝な顔で何度もしつこく聞き返す。


その様子を傍から見て、しびれを切らした千日。


「もう!パパ鈍感!」と、未だその意味を理解していない一念を叱咤する。


「もうこの際だから、言っちゃおうかな・・・。」


そう言って、未だその言葉の意味に思考を巡らす一念を、チラッと一瞥する千日。


千日の目にした一念の顔には、色とりどりのハテナマークがあちらこちらに散りばめられていた。


「一度しか言わないから、ちゃんと聞いて。」


千日のその言葉に、一念は向き直り姿勢を正した。


「言っとくけど、女性からこんなこと言わすのって有り得ないからね!」


さっきより更に強く叱咤する千日に、一念は改めて姿勢を正し、はい!と答えた。


「私がどうして、“あの時”がいつだか分からないのか?・・・・それは・・・・いいかよく聞け!」


そう言って、呼吸の乱れを整える千日。


「それは・・・パパの言う“あの時”よりも、私はもっと前から、パパを見つけていたからです!はい!ここ試験に出るからメモっとけ!わかったか!」


照れ隠しから、ギャグを織り交ぜ告白した千日。


赤く染まったその顔を「あー恥ずい!」と、そっぽを向いて手で仰ぐ。


一方の一念。千日に言われたとおり、咄嗟にその部分をメモる。


しかしその手は小刻みに震え、その顔も、いつの間にか赤く染まっていた。


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