第20話 日和

 気が付くと、自分にジッと眺め入っている千日。

一念はそんな妻を見詰め、一抹の不安が頭を過った。


おじいちゃんと顔を見合わせ、これはどういうことか?と、目配せをする一念。

おじいちゃんはおじいちゃんで、分からん!と、首を何度も大きく横に振る。


「う~ん・・・。」


そんな二人をよそに、チューブだらけの腕を伸ばし、そのままの姿勢で猫のように小さく伸びをする妻・千日。


「うっとうしい。」と口からマスクを外し、もたれかかって寝息を立てる娘の頭にそっと手を添えて、「ただいま。」と静かに呟いた。


 ママには僕が見えているのだろうか?


襲い来る疑念と不安に、一念は次の千日の一挙手一投足を窺い見る。


「パパもちゃんと、にただいまって言ってあげて。」


 見えている‼ママにも僕が見えている!それじゃあママにも、死期が近くまで迫っているということか⁈・・・。


絶望に打ちひしがれる一念、その場に崩れ落ち、床に膝を着く。


「あれ?パパ?どこいった?ちょっと!聞いてる?」


急に視界から消えた夫を、不自由に目だけでキョロキョロと捜す妻。


「ダメなんだよママ。見えちゃダメなんだよ・・・。」


一念はうわ言ように千日にそう告げると、首を大きく横に振り、項垂れてしまった。


そんな絶望する夫を、キョロキョロと目だけで探し続ける妻・千日。


「ねえパパ。背中痛いからさぁ、ちょこっとだけ頭上げてくれない?お願い。ねえ、パパ。どこ?」


視界から外れて項垂れた夫に、千日は介護ベッドの操作を願った。


「え?・・・。」


なんでこんな時に?と、立ち上がって姿を見せて、悲しみ消えぬその表情でベッドのリモコンを捜す一念、慣れないその手つきでボタンを操作する。


「ウィィィン」と、低いモーター音を唸らせて稼働し始めるベッド。


思惑とは裏腹に、千日の足元が徐々にせり上がっていく。


「違うね、パパ。それ足だね・・・足。」


その言葉に、慌ててボタンから指を離す一念。


その顔からは、すでに悲観的な面持ちは消え、焦りだけが取って見えた。


やり直すその手から、再び低いモーター音を唸らす介護ベッド。

今度は望んだ通りに、千日の上体を徐々にせり上がらせていった。


「もうちょっと、もうちょっと、もうちょっと、もうちょっと、はい!そこ!」


自分のベストポジションに満足気な千日。

ようやく安堵の表情を浮かべ、「ありがと。パパ。」と一念ににっこりと微笑みを送る。


その表情に一念も安堵して、ニコッと微笑み返し、リモコンを足元に置いてと丸椅子に腰を下ろす。


ん?・・・なにか忘れてやしないだろうか?


はッとする一念。


千日には自分が見えてはいけないことを思い出し、もう一度千日に確認をした。


「見えてるよ。」


事の重大さを分からずに、きょとんとした表情で答える千日。


その一言に、一念は再び言葉を失う。


「それよりも見てあげて。この子の寝顔。」


呆然とする一念をよそに、膝元でスースーと寝息を立てる愛娘の頭をそっと撫でながら、千日は静かに語り始めた。


「この子ね、パパがいなくなってから、ずっと頑張ってくれてたんだよ・・・。」


語る千日のその瞳からは、うっすらと涙が浮かび上がってきた。


「知ってた?パパが玄関で倒れていたの、最初に見つけたのってこの子なんだよ。」


知らなかった。

一念はその事実を初めて聞かされた。


「その時もね、動転することなく救急車呼んでくれて、ちゃんとパパを病院まで連れて行ってくれたんだよ。」


一念は感謝するとともに、娘にキツイことをさせてしまったと自分を呪った。


「私が病院駆け付けた時は、パパもうすでに霊安室に移された後だったんだけど、そこでもこの子、私が行くまでずっと看護師さんと一緒にパパの顔に着いた血とかぬぐい取ってくれてたんだよ。」


一念の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれだした。


「お医者さん、言ってたわ。お嬢さん、気丈な子ですねって。この子ね、私行くまでずっと、泣かなかったみたい。泣かないで、ただ一点を見詰めて、必死に祈ってたみたいだって。だから私が着いた時は、それはもう凄かったわよ。私、久々に見たわー。あんな大声出して泣く日和。」


それを聞いていた一念も、気を緩めると声を出して泣き叫んでしまいそうだった。


「ま、私もその時は大声出して泣いちゃったけどね・・・。」


 だからだったのか。あの若い医師が、あんなにも日和のことを気遣ってくれていたのは・・・・。


「だけどね、この子が泣いたのはそれっきり。それからは、お通夜の時も、告別式の時もそう。最後、パパの眠る棺桶にお花入れてあげたんだけど、その時もこの子、泣かなかったのよね。」


その時のことを思い返し、千日の頬にキラリと一筋の涙がこぼれた。


それを、チューブに繋がれた腕で重たそうに拭き取る千日。


千日は再び、鼻を啜って話し始めた。


「私、言ったの。最期なんだから泣いてもいいよって。泣いてパパに、存分に甘えちゃいなさいって。そしたらね、この子なんて言ったと思う?」


娘を見詰め、首を小さく横に振る一念。


一念の手は、すやすやと眠る日和の頭を、いつからかそっと撫で続けていた。


「この子ね、ママ、私はいいよって。私が、どうして?って聞いたら、ママは、奥さんなんだから甘えなって。でも、私は娘だから。って。パパは、私が泣いてると、いつも困った顔してたから。って。だからきっと、いまも困ってここから離れられなくなっちゃうから。って・・・・・・。私・・・・やられちゃったわよこの子に!」


そう言い放つと、千日は堰を切ったように号泣しだした。

その瞳からは、これでもかというほどの大粒の涙が後から後からポロポロとこぼれていた。


そういえば、自分はいつも不器用で、泣きだした日和をあやすのにてんてこ舞いだったことを思い出す一念。


一念も、同じく大粒の涙をポロポロとこぼし、ふと気が付くと、傍で千日の話に聞き入っていたおじいちゃんも、ボロボロにもらい泣きをしていた。


三人とも、日和にやられた。


「私、この子に助けられちゃったよ・・・。」


そう言う千日、枕もとのティッシュをワッシ!ワッシ!と掴み取り、ぶぶぶーっ!と鼻を一括した。


「だからさ、褒めてあげて。頑張ったこの子に、ありがとう。って、言ってあげて。」


その言葉に、一念は胸が締め付けられる思いをした。


眠る日和の耳元に顔を寄せ、「ありがとう。はる。」と、静かに囁く一念。


その頭にをそっとぶつけ、幼い頃からの日和との日々を、一つ一つ思い返し心に刻んでいった。


すると突然、「はる。はる。」と、千日はチューブだらけのその腕で、眠る日和を揺り起こす。


その行動に一念は驚き、「ちょっ!なに⁈どうしたの?ママ!」と、娘を揺り動かす千日のその手を止めに入った。


「だって、これがほんとの最期でしょ?さっき言ったじゃない。はるにもただいまって言ってあげてって。」


言葉に詰まる一念。


千日はさっきよりも更に激しく、眠った日和を大きく揺さぶる。


「はる!起きて!ねえ!パパいるから!いまパパ来てくれてるから!」


張り裂けてしまうほどの痛みが、一念の心に走る。


一念はこみ上げてくる哀しみを抑え、「やめようママ。もうやめよう!」と、震える声で妻を止める。


「ほげ?・・・。」


すると、朦朧とする意識の中、母の声に応えるように瞳を閉じたままゆっくりと顔を上げ、重たい瞼をこじ開けようとする娘。


千日はそんな極限状態の娘に、「ただいま。」と、声をかけた。


「ぅん・・・。」


極めて小さく蚊の鳴くような声で返事をする娘。


千日は一念に、「はい!言ってあげて!」と、初対面の時を彷彿とさせる威圧的な目配せをした。


「はる・・・ただいま。」

「!」


夢うつつの中、一念に振り向いてにこりと微笑む日和。


「おあえい(おかえり)・・・ファファ(パパ)。」と、ろれつの回らないその唇で、帰ってきた一念を笑顔で迎え入れた。


父の目から、再び溢れる涙。


すると千日。欲をかいてか、小声で一念に「あと、いろいろありがとうねって。よく頑張ってくれたねって。言ってあげて!早く!早く!ほら!寝ちゃうから!」


そう言って、夫を急かした。


いきなり想定外なことを要求され、焦る一念。


「え?え?あ!うん。ありがと!うん!ありがとね!よくがんばったね!」と、取って付けたような言葉を日和に伝える。


しかし娘に、聞こえたのかどうなのか?

娘はそのまま微笑んで、電池が切れたようにパタリと母の膝元に顔を埋めて、またスースーと、深い寝息を立て始めた。


「ありがとう。パパ。」


微笑んで、眠り着く娘を見つめる母。


その笑みからは、もう心残りがないことを窺い取れた。


「私はさ、この間パパに、ただいまって言ってもらえたじゃない?でもさ、この子はただいまも言われないままにお別れだったから、ちょっとそれが心残りだったんだ。最期にわがまま聞いてくれて、ありがと。」


そう言って、千日は一念に振り向き、笑顔で感謝の気持ちを伝えた。


その気持ちに、一念も千日に振り向いて、「僕も、ママとには沢山感謝しているんだ。」と、笑顔を返した。


すると、千日のその言葉に、いままで後ろでもらい泣きをしてボロボロになっていたおじいちゃんが声をしゃくりあげながら、「お、おい・・・こ、ここ・・この間って、い、いつなんだ?」と、一念に訊ねた。


「え?あ、えっと・・・っていうか、だ、大丈夫ですか?」


なにもそんな焦らなくても、落ち着いてから喋ればいいものを。と、しゃくりあげるおじいちゃんを気遣いながらも、一念はその記憶を遡る。


「あ!えっと、あの時です。妻を助けにここに来た時。妻が脚立から落ちた、あの瞬間の時です。」


あの時すでに、念徳爺さんは根回しに向かっていたために居合わせていなかった。


腫れぼったい目を抑えつつも宙を見詰め、あれやこれやと思いを巡らすおじいちゃん。


「これはもしかしたら、もしかするかもしれんな・・・。」


おじいちゃんは一念にそう問いかけるが、一念には何をどう理解したのか、さっぱりと伝わらない。


おじいちゃんは、「カ、カミさんにも、わしがその・・見えておるか、聞いてくれんか?」と、一念に耳打ちする。


「え?・・・。」


戸惑いながらも、千日に念徳爺さんが見えているか訊ねる一念。


「あのさ、ママ。変なこと言うんだけどさ・・・。この部屋には、僕とママ、それと日和の三人以外に、もう一人居るの、見えてる?・・・。」


一念さん。そんな言い方したら、千日さん勘違いしませんか?・・・。


すると千日、突拍子もない夫のその質問に、目だけを動かし、薄暗い病室の中を見回す。


「パパ?・・・それはあれ?この部屋にお化けとか、そー言った類がいるってこと?・・・。」


ほら・・・言わんこっちゃない。


未だ目だけで辺りを見回し、恐る恐る気配を探る千日、チューブだらけのその腕でゆっくりと娘を引き寄せて庇う。


ね?一念さん。彼女だいぶビビってますよ。


「あ、えっと、違うんだママ。お化けとかそー言った類ではないんだな・・・。」


なんと説明したらよいか、困惑する一念。


すると念徳爺さん、呆れた様子で、「もうよいわ。わしが話す!」と、一念を退け前に出る。


「初めまして千日さん。わしは念徳と申しまして、この一念の祖父に当たるもんです。」


しかし、千日の耳には届いていないのか、おじいちゃんのその嗄れ声には全くの反応を示さない。


その様子を目にして、おじいちゃんはやはりな。と、その頬にニヤリと笑みを浮かべた。


「おい。お前のカミさん、やっぱりまだまだ生き続けるぞ。」


その言葉から、一念の表情に光が差した。



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