第19話 トマト
一九九三年 秋。
午前中の講義を終え、腹を空かせた学生達でごった返す学生食堂。
一念には、いつも座る自分の場所があった。
そこはいつでも、ほぼ百パーセントの確率で座れる穴場的な場所。
食堂全体をぱっと見で、観葉植物と柱で遮られた認識しづらい四人掛けテーブルは狭苦しい場所に設置されたため、二席しか使えないちょっと日陰の控えめな場所。
この日もいつも通り、一念は一人、このテーブルを独占して、お決まりメニューのタンメンを頬張っていた。
するとそこに、「あ!あそこ!」と、三人の女子学生がお盆をもって近寄ってきた。
まさか自分の座るテーブルが狙われているとも知らず、無心でタンメンを頬張り続ける一念。
するとそのうちの一人が、「え?でもそこって、二人しか座れないじゃん。」と、二人の友達に別のテーブルを捜そうと提案をした。
すると、「大丈夫よ!」と、少し強気なもう一人の女子学生がテーブルにお盆を置き、一念がいることも気付かずに、グイッ!と三人座れるように、柱からテーブルを大きく引き離した。
突然、ポルターガイストのように動き出したテーブルに慌てる一念。
啜りかけたタンメンを咥えたまま咄嗟に器を抱え上げ、目を丸くして辺りを見回す。
その一念に、いち早く気が付いたまた別の女子学生が、慌てて千日を止めに入った。
「千日!ちょっと!」
「え?あ!・・・。」
一念がいることに、今ようやく気付いた千日。
「相席・・・・いいですかね?」と、仰天した一念に声をかけた。
それが、一念と千日の初対面の会話。
いや、この時は千日が一方的に話しかけたので、会話としては成立していないが、これが二人のお初であった。
「はっはっはっはっは!」
静かな病室に、念徳爺さんの笑い声がこだまする。
一念は慌てて人差し指を口に当て、おじいちゃんに静かにするよう促そうとしたが、自分たちの声は、もう誰にも届かないんだということを思い出すと、それを止めておじいちゃんを大いに笑わせた。
大声で腹を抱えて笑う念徳爺さん。
「お前さんの嫁さん、面白い奴だの。」と、ハンカチを出し涙を拭い、
「で?その後は?ちゃんとタンメン食えたんかい。」と、一念に話の続きを求めた。
「それがその後・・・・。」
一念もうっすらと目に涙を浮かべ、おじいちゃんの要求通り再び話を語り始めた。
隣どうしのテーブルとキチキチになりながらも、なんとか四人座れた一念のお気に入りの場所。
迷惑そうに見る周囲の視線を、侵略者のごとく千日が威圧感ある笑顔で制圧している。
そんなイケイケな千日に、侵略された側の一念が文句を言えないのは当然のこと。
ここは早いところ食べ終わって、事なきを得たほうが良い策かと、先程より更に懸命に一念はタンメンを啜る。
するとそんな一念の目の前では、おしゃべりに夢中になった千日が手探りで調味料入れに手を伸ばしている。
その光景に、千日のメニューから推測して塩を取って千日に手渡す、お人好し丸出しな一念。
意表を突いた一念の御好意に、千日は焦った。
「ありがとう。」と、礼を言う千日、しかし手にしたのが塩であることを確認すると、「でも、これじゃないの。」と、塩を置いて、かわりにソースを手に取った。
え?ソース?・・・。
見たところ千日のお盆には、生姜焼きにどんぶりごはんとおみそ汁。
付け合わせのお新香に小鉢のサラダ。
サラダにはドレッシングがかかっていて、メニューにソースを使う要素がどこにもない。
黙ってソースの行方を見守る一念。
すると千日。
サラダに付いたトマトに、おもむろにソースをかけ出した。
「えぇ!」
あまりの驚きに思わず奇声を発する一念。
その声に千日は、冷めた眼差しに若干の敵意を漂わせ、叫んだ一念を一瞥する。
「この子おかしいでしょ?」
友達の女子学生が笑みを浮かべ、千日を小馬鹿にするように一念にそう言うと、千日は「言ったな!」と、その友達に挑戦的に口を尖らせ、ソースのかかったトマトの小鉢を一念の目の前にグイッと差し出した。
驚いて、咄嗟に首を引く一念。
千日は無言のまま顎を前に突き出し、一念に「食せ!」と、指図した。
「え?え?」
怪訝な顔で戸惑う一念。
二十年以上生きてきて、見ず知らずの女性に小鉢など勧められたことがない。
「そんなの突き出されたって嫌だよね。辞めた方がいいよ。」
制圧者の千日とは違い、まるで天使のような友達の助け舟。
一念はその助け舟に乗っかり断ろうとはしたが、すかさずチッ!と鳴らされた制圧者の舌打ちに後戻りができず、望まない会釈を軽くして、いやいやながら小鉢に箸を勧めた。
母さん、僕は今、未開の地へと、足を踏み入れます・・・。
箸先に突き刺さった、たっぷりとソースのかかったトマトがいま一念の口の中を侵略する。
「・・・・・・・・・あれ?」
濃厚なソースの味わいの後から、溢れんばかりの果汁豊かなトマトの旨味が、口の中いっぱいに広がっていく。
悪くない!いや、むしろこれは旨いと言えるのでは?
ちょっとお高そうなお店にいって、アペタイザーとしてワンスプーンに盛られて出されたら、「へぇ、こんな食べ方もあるんだ。」と、納得してしまいそうな味。
驚きに、目を丸くする一念。
その様子を見て、千日は口元に「フッ。」と、笑みを浮かべ、勝ち誇ったように友達を一瞥し、そして今や、ソースまみれのトマトに舌鼓を打つ一念に言い放った。
「でしょ?」
一念は思わず、千日に「はい!」と、頷いてしまった。
年齢も学年も一つ下の、言わば後輩の千日に・・・。
「ほー。そんなに旨かったんかい。」
未だ二人の寝息が聞こえる静かな病室。
一念の語るなれそめ話に、おじいちゃんは頬を緩ませ楽しみに聞き入っている。
「あの味はね。今でも忘れられません。」
そう言って、あの頃を懐かしむ笑顔で思い出を見つめる一念。
それから一念は、二人の付き合いがここから始まったことや、一念が先に卒業と就職をして、一時は破局にまで陥りながらも幾多の困難を乗り越え、なんとか無事に籍を入れられたことや、数多家の宝、一人娘の日和を授かった時のことなどを、それこそ走馬灯のように思い返し、念徳爺さんに話し続けた。
話す一念のその表情からは、千日や日和との良い思い出を思い返せたおかげか、思い残すことのない満足気な笑みが、自然とこぼれていた。
「良い人生だったようだの・・・。」
一念の思い出話を聞き続け、念徳爺さんもまた、幸せな孫の人生に満足気に微笑み返す。
「お前さんたちはさ、結婚前はなんて呼び合っていたんだい?」
またもや唐突な、念徳爺さんのこっぱずかしい質問に、年甲斐もなく頬を赤く染める一念。
一念は、「さすがにそれは・・・ねえ。」と、おじいちゃんのその質問にそっぽを向いた。
「いいじゃねーかよ。ここには老耄しか聞いとらんから。」
そう言って、「ほれ、聞かせ。」と、一念を急かすおじいちゃん。
一念は渋々、結婚前の呼び名を照れくさそうに明かした。
「〇△ちゃんです・・・。」
「は?」
はにかむ一念の、あまりにも小さすぎる声に、聞き取れなかったおじいちゃん。
「なんだって?」と、その身を乗り出して、一念にもう一度、昔の呼び名を聞き返した。
「だから、〇きちゃんです。」
ここまでくれば、あとは大体想像がつくものを、それでも一念の口からはっきりと聞き取ろうと、念徳爺さんは更に身を乗り出し、一念に「はぁ⁈」と、意地悪く詰め寄る。
「だから!ゆきちゃんです!って!」
感情のあまり、思わず大声でその名を叫んでしまった一念。
咄嗟にその口を手で覆い隠し、二人の寝顔を覗き込んだ。
しかし、素よりすでに、自分の声は二人には届かないことを思い出した一念。
その手を下ろして、意地悪な念徳爺さんに戒めの一瞥を送った。
一念にキッと睨まれても、何食わぬ顔でそっぽを向く子供っぽいところも持ち合わせるおじいちゃん。
そんなおじいちゃんに一念は「まったく、この人にはかなわないな。」と、フッと鼻で笑い返した。
すると、一念のフッという笑い声とはまた別に、「フフフフッ」と、どこからか弾むような笑い声が、一念の耳を掠めていった。
「え?」
「なに?」
耳を疑いおじいちゃんに目を遣る一念。
見ると念徳爺さんも、目を丸くして辺りを窺っている様子。
笑い声は、一念だけでなくおじいちゃんにも届いていたようだ。
「随分とまた、懐かしい呼び方で呼んでくれるんだね。パパ。」
その声に、眠る千日に視線を移す一念。
「ママ⁈」
千日は知らぬ間に目覚め、一人でしゃべり続ける一念に、ジッと眺め入っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます