第15話 現実
千日が処置室に入り、どれほどの時間が経過しただろう。
ロビーの長椅子に体を預け、千日の無事を祈り続ける一念。
ふと、いつの間にかロビーで腰を下ろしているおばさんに気付くと、一念はおばさんに歩み寄り、軽く会釈をして感謝を伝えた。
「有難うございました。あの時五十嵐さん来てくれなければ妻は・・・・。」
するとおばさん、話し続ける一念なんぞに目もくれず、突然すくっと立ち上がってそのまま一念を素通りして足早に玄関の方へと向かいだした。
え?・・・。
ぶっきらぼうなおばさんの態度に呆気にとられ、そのまま目で追う一念。
するとその先には、汗だくになって辺りをキョロキョロと見回す、娘・日和の姿があった。
「はるちゃん!」と、手を振るおばさん。
日和もこちらに気付き、手を振り返して駆け寄ってくる。
母の容体に不安を募らした娘。
泣きそうな顔をして、おばさんの胸に飛び込む。
抱き寄せるおばさん。
一念も同じく駆け寄り、「はる!」と、声をかけるが、同時にかけられた看護師さんの声にかき消されたため、日和の耳までは届かなかった。
「
「はい!」
「はい!」
その声に、振り向き同時に返事を返す一念と日和。
「先生の方からお話がありますので、お入りください。」
看護師さんのその一言に、二人の鼓動がドクン!と脈打つ。
飛び出しそうになった心臓を、ゴクッと吞み込む日和。
日和は震えるその手で、胸元のペンダントをギュッと握りしめる。
「おばちゃんも一緒にいこうか?」
その日和の様子から、静かにそう問いかける五十嵐さんのおばさん。
しかし日和は、頭を力強く横に振り、
「大丈夫。パパがついてくれているから。」
と、おばさんに笑顔を返し、ありがとう。と、一言伝えて診察室へと踏み出していく。
その様子を、傍らでジッと見詰めていた一念。
彼もまた、おばさんに軽く会釈をして日和の後を追うように、ともに診察室へと足を踏み入れていく。
診察室に入ると、若い医師がレントゲン写真を映し出したモニターを見詰め、背中越しに「お座りください。」と、促している。
お座りくださいと言われても、そこには丸椅子が一つ。
一念は日和に「座りなさい。」と、席を勧めた。
モニターから目を離し、振り向く医師。
日和を見て、「やっぱり。」という言葉が口を衝いて出る。
日和も医師の顔を見ると、あ!という顔をして、
「あの時はいろいろと、ありがとうございました。」と、深々と頭を下げている。
二人は顔見知り?
面識ない、娘の知人男性に怪訝な顔の一念。
すると医師、深々と頭を下げる日和に、
「僕はあの時、結果、何もできなかったから・・・。」と、哀しげな顔をよぎらせ、日和に頭を上げるよう促した。
目の前で交わされている、全く分からない二人の会話を、未だ怪訝そうに聞き入っている一念。
「もう、一週間くらいになるのかな?・・・。」
目の前に座り、気遣いながら語る医師の言葉に、日和は小さく「はい。」と、頷く。
その表情から、日和が想像以上に不安を募らせていることを医師は汲み取り、
早いところ結果を伝えてあげたほうが良いか・・・。
と千日の診断結果を、医師は早々に切り出す。
「お母さんだけどね・・・。」
その一言に、またも鼓動が大きくドクン!と脈打つ日和。
一念もまた同じく、二人の顔に緊張が走る。
「結果から言うと、お母さんは助かりますよ。」
そう、優しく語り掛ける医師の表情に、張りつめていた緊張から一気に解き放たれた日和と一念。
安堵した日和の瞳からは、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
目の前に、ティッシュの箱をそっと差し出す医師。
医師は続けて、
「お母さん、頑張りすぎちゃったみたいだね。いろいろと大変だったものね。」と、柔らかな口調で日和に伝える。
顔を伏せ、無言で大きく頷く日和。
医師は更に話を続け、
「あなたも、お母さん支えながら大変だったでしょう。」
と、日和に労いの言葉をかけた。
その言葉に、今度は謙遜して首を横に振る日和。
一人で首を縦に振ったり、横に振ったりと大忙しな娘。
その光景に笑みをこぼし、一念は頑張った娘の頭に、そっと手を添える。
その一念の瞳からもまた、涙が一筋こぼれていた。
日和に差し出されたティッシュから、一枚拝借しようと軽く会釈をして手を伸ばす一念。
しかし医師の次のセリフから、その手はピタリと止まった。
「お父さんは残念だったけど、お母さんは元気になって、帰れるようになりますからね。」
ん?・・・いま、なんつった?
本人を目の前にして残念とは何事か?と、軽い憤りを味わい、一念は医師に物申す。
「え?残念って、どういう意味ですか?」
しかし医師は、一念の言葉に耳を傾けることなく、日和に母の容体を説明し始めている。
「え?・・・ちょっと?・・・。」 なにかがおかしい。
自分には全く目もくれない医師。
今度は娘に問いかけようと、一念は娘に振り向く。
「ねえ、はる・・・。」
ふと、娘の首元に目を奪われる一念。
そこには、定位置の左薬指にいるはずの一念の結婚指輪が、真新しいチェーンに繋がれてキラリと輝いていた。
「あれ?」
すぐさま自分の左手を見下ろす一念。
そこにあるはずの結婚指輪はいつの間にか消え、薬指にはくっきりと跡形だけが残されていた。
なんで日和がそれ持っているんだろう?
一念は、「ねえ、はる、その指輪って・・。」と、娘に訊ねた。
しかし、娘の耳にも一念の声は届いていないようで、娘は医師の話しを真剣な趣きで聞き入ったまま。
「なに?これ。ドッキリか何か?」
周りを見回し、今度は傍に立つ看護師さんに声をかける一念。
「あの、ちょっといいですか?」
しかし看護師さんも反応は同じ。
一念の声など聞き入れず、日和と一緒に医師の話しに耳を傾けている。
今まで影が薄いとか、存在感がないとは言われたことがあったが、ここまで人から無視されたことなど一度もない一念。
脳裏をよぎる不安と迫りくる恐怖から、息は段々と荒くなり顔面は蒼白に変わっていく。
やがて医師の話しは終わり、安堵の表情を浮かべた日和は看護師さんに案内されて診察室を後にする。
一人、取り残された一念。
その場に立ち尽くし、日和の去った後の診察室が、なんの弊害もなく通常業務に移行されていることに、絶望を味わう。
あの・・・俺、まだここにいるんですけど・・・・。
各々の反応から、自分がここに存在していないことに気付かされる一念。
タイムスリップしてからずっと、頭の隅で燻っていた懸念が断定を伴って襲い掛かってくるのを、一人ぼっちで味わう。
看護師さんに連れられて、診察室から出てきた日和。
中にいる医師に会釈をして、そっと診察室の扉を閉める。
その姿を見つけて駆け寄る五十嵐さんのおばさん。
日和の表情から、千日が大事に至らなかったことを悟りホッと胸を撫でおろす。
「お母さん、大丈夫だった?」と、柔らかな口調で訊ね、良く頑張ったね。と、日和を抱き寄せるおばさん。
その温もりと安堵から、「うん。ママは助かるって。」と、答えた日和の瞳からは、再び大粒の涙がこぼれだした。
「よかった。本当によかったよ。はるちゃん頑張ったものね。こんなに頑張ってるはるちゃん、お母さん一人ぼっちにしてくわけないんだから。おばさん信じてたよ。本当によかったね。」
そう言って、日和を抱きしめ宥めるおばさんの瞳からも、安堵の涙はポロポロとこぼれていた。
その光景を、暖かく見守っている看護師さん。
「
その声に、おばさんの胸から顔を上げて「はい。」と答える娘。
真っ赤になった鼻先をハンドタオルで隠しながら、看護師さんの後に付いておばさんとともに母に会いに行った。
その一部始終を、ロビーの長椅子に腰かけて眺め入ってる老紳士。
後に付いて出て来るはずの一念の姿がないことに疑問を持ちながらも、とりあえず立ち上がり三人の後を追った。
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