3.灯台のエイハブ

 ――エイハブは『神様』とは距離を置いていた。


『元々、この島にはおれしかいなかったんだよ』エイハブは言った。

 彼は寂れた灯台に住んでいて、絵を描いたり、釣りをしたりして過ごしていた。

 食糧や新聞は、一月分が外から運ばれてくるらしい。

 家にいたくなかった自分は、仕事を抜け出してはエイハブの灯台に潜り込んだ。

 早朝からやってくる小娘にエイハブは嫌な顔をせず、むしろ歓迎してくれた。どうやら、話し相手が欲しかったらしい。


『食べ盛りだろ。ちゃんとしたものを食え』


 そう言って、彼はよく素晴らしいエッグベネディクトをこしらえてくれた。

 それを食べた後は、自分たちは思うようにして過ごす。

 海を見たり、絵を描いたり、ココナッツで乾杯したりした。島での時間はおおよそ不愉快なものだったが、エイハブとの時間は特別なものだった。

 シャチを遠くに見た時は爽快だった。

 それは季節の変わり目に、時々島に迷い込んでくるという。彼方の黒い背びれを指さして、エイハブはまるで無邪気な子供のように喜んでいた。


『見ろ、シャチだ。よく見ろ、水族館で観るのとは大違いだぞ』


 双眼鏡を除く自分の頭を掻き撫でながら、エイハブは息を弾ませる。

 そうして不意に、どこか不思議な声音で呟いた。


『……海の殺し屋だ。おれの昔の同業者だな』


 同業者とは――たずねるよりも前に、シャチが跳ねた。

 ブリーチングだ。クジラの類が行う行動。寄生虫を落とすためとも、ほかのクジラへの合図とも伝わるその行動は圧巻だ。

 力を漲らせた白黒の巨体が海面を割る。

 それは空中で踊り、轟音と水飛沫とともに再び海中へと潜り込む。

 そんな行動を見たエイハブは歓声を上げ、同じく昂揚した自分は聞きたかったことを忘れてしまった。

 

 エイハブは謎の多い男だった。

 年齢も国籍も定かではない。けれども、彼は時々ぽつぽつと自分のことを話してくれた。

 ある日、エイハブは絵を描きながらため息を吐いた。


『おれはいろいろと嫌気がさしてよぉ、ここに隠れたのさ。……そこに後からヤツらがきた。『神様』とか呼ばれてるのと、その取り巻きだな』


 なんであいつらを追い出さなかったの、と聞いた。


『関わり合いになりたくねぇからほっといてる』


 キャンバスに黒い色を塗りながら、エイハブはぼやいた。

 描いているのは、前に二人で灯台から眺めたシャチの絵だった。


『もうおれにはなにもかもうるさくて、面倒くさくてなぁ……ロシア女が死んでからさ』


 ロシア女とは誰か。

 そう聞くとエイハブは笑って、人差し指を立てた。


『……そろそろ喉が乾いただろ。ココナッツでも割ってやるよ』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る