19.Mirror,Mirror,

「あのジグザグザコめ」――キーラは、オーレリアに聞こえないよう悪態を吐いた。


 上がる。上がる。上がる――。

 王冠のヴィジターの追跡をかいくぐり、時に片手でそれを殺しながら、ずぶ濡れのキーラは階段を駆け上がる。もう片方の手は、オーレリアを肩に担いでいた。


「キ、キーラ……! キーラ! 本当に、大丈夫なの……!」

「ナオミのこと? あいつなら大丈夫だよ」


 ナオミは死んでもすぐに復活する。

 ならば、復活してもすぐに死ぬ状態にすれば身動きがとれなくなる。だからキーラは予め金網床の一部を歪め、鉄筋を数本水中に落としておいた。


「鉄筋を使って、あいつの心臓と頭を鉄筋で水底に釘付けにしてやった。あれなら再生してもすぐに死ぬ。君のクラゲも数匹あそこに留まったから――」

「そ、それも、だけど……」


 ひやりとした手が頬に触れた。

 駈け上がりながら、キーラは視線だけをそちらに向ける。


「キーラは、大丈夫なの……? み、水の中で、先生に傷つけられてない……?」


 オーレリアはどこか気遣わしげな様子で、キーラの頬に触れていた。そちら側の頬には、先ほどのナオミによって浅く斬りつけられた傷がある。


「それにあの水も、もしかしたらヴィジターの影響が――ぐ、具合は悪くない……?」

「――――ふっ」


 キーラは、一瞬だけ笑った。そして脚に力を込めた。

 轟音――扉を蹴り飛ばし、キーラは一階のラウンジへと躍り出た。甲高い音とともにひしゃげた太陽像のレリーフが転がるのを見て、彼女は無表情でうなずく。


「ははあ、あれが隠し扉だったのか」

「あ、あわ、わ……」

「私はこの通り絶好調だよ。――しかし、どうやって人間界に帰るか考えないと」


 震えるオーレリアを、キーラはとりあえず床に降ろした。

 血の海の床にへたりこみかけたものの、オーレリアはなんとかキーラにすがりつく。オマモリミズクラゲが数匹、気遣うようにその周囲を漂った。

 赤い天体が光る異常な空を窓から見つめ、キーラは腕を組んだ。


「ナオミは帰る方法を言わなかった。君は無事に帰れるだろう。しかし、私だってこのまま帰れなければ困る。――さて、どうするか。何か思いつくことはある?」

「わ、わたしは、魔法の才能がない……」


 オーレリアは首を振り、乱れたダークブラウンの髪を掻き上げた。


「ホテルを境界に留めたのは先生よ。その先生が、身動きを取れなくなったのなら――」


 鈍い音とともに、衝撃がホテルを揺るがした。

 悲鳴とともに身をすくめるオーレリアをとっさに支えつつ、キーラは辺りを見る。

 窓の向こうの景色が、蜃気楼の如く揺れている。気のせいか、マゼンタとシアンの入り乱れる空は徐々に鮮やかさを増しているように思えた。

 そして、壁面の亀裂が増えている。


「や、やっぱり! 下降が始まったわ……!」


 オーレリアが泣きそうな声で言って、月長石のブローチを握りしめる。


「侵蝕が加速する……ホテルが壊れちゃうかもしれない……そして、そのうち、ハ、ハルキゲニアに落下して……ああ! 境界に穴が開いちゃうわ! に、人間界まで……!」


 オーレリアは身震いして、目を伏せる。

 関節が白くなるほどに握りしめた手の中で、ブローチがほのかに光っていた。恐らく、これがナオミの細工だろう。言葉通り、彼女はオーレリアは救うつもりのようだ。

 キーラは無表情のまま、指の腹を合わせて考え込んだ。


「どうしたものかな……」

「……こんな時でもキーラは落ち着いているのね」

「いや、私だってわりと動揺しているよ。悪いね、表情に出にくくて」


 無表情で肩をすくめるキーラに、オーレリアは深くため息を吐いた。そしてオマモリミズクラゲ達を指先に戯れさせながら、力無く視線を上に向ける。


「……エレベーターみたいに、上に行けたらいいのに」


 エレベーター。キーラは、ゆっくりと一つまばたきをした。


「……オーレリア。ナオミが下降を止めていたから、さっきまでホテルはハルキゲニアと人間界との境界に留まっていたんだよね」

「そ、そうだけど……だから先生が動けなくなった今は……」

「そもそもこのホテルは落下したのではなく、魔法によって下降していたんだよね? 魔法がなければ、境界の作用によって異物は人間界側によって押し出される――と」

「そ、そうよ、そう……あ……」


 何かに気付いたのか、オーレリアが大きく目を見開いた。


「――なら、どうして下降が止まらない?」


 キーラは口元に触れながら、群青の瞳を細めた。

 ごうごうと唸るような音が聞こえる。ホテルの震動はまだ続いている。窓の向こうの景色が彩度を増していく中、オーレリアは額を押さえた。


「し、仕掛けがあるんだわ……。このホテルに、先生以上のメイジはいないはず! た、たぶん、仕掛けを使って無人で魔法を稼動させてるの……!」

「そんな事が可能なの?」

「可能よ! 複数の呪文を組み込んで、機械みたいな感じで事前に必要分のマナを充電しておくの。そうすれば、あとは起動させておくだけでいい……!」

「プログラム通りに勝手に動いてくれるから――か」


 徐々にパニックに陥りつつあるオーレリアの肩を撫でつつ、キーラは眉を寄せる。


「仕掛けはどこにあるだろう? どんな見た目をしているのかな」

「そ、そこまではわからない。道具、紋様……なんでも考えられるわ。ただ、ホテルにあるくらいだから目立たないもののはず……壊されちゃ困るもののはずよ」

「困ったな、ヒントがいくらなんでも少ない。金庫にしまわれてちゃお手上げだ」


 キーラは嘆息し、親指と人差し指とで唇に触れた。

 オーレリアは乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻いて、大きく深呼吸をする。


「か、考えて、考えて、考えるのよ……この大きな建物をハルキゲニアに落とせるだけの仕掛けよ……きっと小さくはない。複雑な呪文を組み込まなきゃいけないはず……たぶん、魔法と相性のいいもの……た、たとえば……教会の鐘、儀礼用の剣、屍蝋、鏡、宝石……」

「――――あ」


 オーレリアの呟きを聞いた瞬間、キーラの脳裏に電光が閃いた。

 まったく同時に、体は動いた。必死で考え込むオーレリアを軽々と肩に担ぎ上げ、キーラは脱兎の如く非常階段へと駈け込んだ。


「な、なに! なになになになになに――ッ!」

わかったエウレカ! わかったエウレカ!」

「なんなのぉおおお……!」


 キーラの哄笑と、オーレリアの絶叫とが非常階段にこだまする。

 非常階段も、もはや赤く光る亀裂に覆われていた。そのうえ、狭い中をあの王冠のヴィジターがたむろし、キーラを見るなり奇声を上げて襲ってきた。


「最高だ! 最高に気分が良い!」


 キーラは高い声で笑いながら、オーレリアを抱えたまま身を翻した。

 長い腕が切り落とされ、宙を舞う。首が潰され、蛍光色の血が闇に散る。殺到するヴィジターの群れを斬り殺し、蹴散らしながら、キーラは数段飛ばしで上へと駆ける。


「そういうことか! なるほど! そういうことだったのか!」

「お、おねがい、せ、せめて、説明を……う、うう……」


 上下左右に激しく揺さぶられ、オーレリアは真っ青な顔になる。

 キーラは八階へと躍り出た。扉を蹴り飛ばし、まっしぐらに廊下を駆け抜ける。

 開け放たれた客室の扉から、赤い光が漏れてくる。いよいよ、ハルキゲニアに近づきつつあるようだ。ホテルの揺れも大きくなり、まともに立っていられない。

 目指したのは、八〇三号室――自分の宿泊する部屋だった。


「二階で電波が通じたのは、監視室があるからだ」


 言いながら、キーラは扉を蹴り開ける。

 何事もなかったかのように無表情のキーラに、オーレリアはよろよろと続いた。

 洗面所に入ると、電話が鳴った。発信元はシドニーだが、キーラは応答せずに画面だけを確認する。確認した電波は不安定だが、他の階よりも強い。


「なら、八階で電波が通じる理由はなんだ?」

「人間界との結びつきが強いから……? で、でも、八階のどこにあるかは――」

「いや――多分、こいつが仕掛けだ」


 キーラは洗面所の鏡を指差す。相も変わらず、それは清潔で光り輝いて見えた。

 鏡の脇には、先日キーラが置きっぱなしにした52ヘルツの瓶がある。


「ここだけ変異してないし――なにより、鏡文字になってない」


 オーレリアは眼を見開き、鏡面に映る52ヘルツのラベルを見つめた。深海を泳ぐ鯨のラベルは、確かにキーラの言葉通りに反転していなかった。


 キーラは、青く光るバテンカイトスを抜き払った。

 それを鏡にあてがいながら、視線をオーレリアに向ける。オーレリアは不安げに瞳を揺らしていたが、それでもキーラを見て、しっかりとうなずいた。


 キーラは無表情のままうなずき返すと、バテンカイトスを振り上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る