18.カラスの安全保証

 オーレリアは不安げな表情のまま、シートの下から這い出てくる。


 積み上げられていた資材の一部が崩れ、派手な音を立てた。その音に身を竦ませつつも、彼女はよろめくように金網床を歩いてくる。


「……出てこなくとも良かったのに。君は私にクラゲを貸すだけでいい。もし辛かったら、すぐに出入口から出ていってもいいと言ったはずだよ」

「そ、それは……ダメだと、思うから……」


 首を振りながら、オーレリアはキーラ達の正面に回り込む。

 そしてスカートの裾に気をつけつつ、しゃがみ込んだ。――ナオミと視線を合わせた。


「あのね……先生、わたしは……」


 ナオミは何も言わない。黒い瞳は、何を映しているのかもわからない。


「わたしは、まだ先生のことを大切だと思っているわ」


 それでも潤んだアイスブルーの瞳は、揺れながらもナオミの姿を捉えていた。

 瞬間――ナオミを取り巻く【黒】の環が、ぐらりと揺れた。

 危険は感じない。攻撃の予兆ではない。

 これは動揺の揺らぎ――ナオミは、明らかにオーレリアの言葉に大きく揺さぶられた。


「でも、キーラのことも大切だと思っているの」


 ナオミの変化を知ってか知らずか、オーレリアは拙く言葉を連ねる。


「……ここでは、あまりにも多くの人が死んでしまったわ。人が死ぬのは嫌……わたし以外の人が傷つくのは、好きじゃない……」


 ナオミの【色】が揺れる、乱れる――まるで、彼女が操ったカラス達の末路のようだ。

 数多の思考が入り乱れ、かき回され、散り散りになっていく。

 ここまで【色】がぐちゃぐちゃに掻き乱される様を視たのは、初めてのことだった。


「だから、先生……教えて?」


 オーレリアはぎゅっと両手を握り合わせて、おずおずと切り出した。


「どうやったら、ここから出られるの?」

「…………まったく君は。本当に……本当に……」


 ナオミは、がっくりとうなだれた。

 彼女を取り巻く【黒】の環が、徐々に静まっていく。やがて、それまで絶えずざわめいていた彼女の【黒】は、今までになく凪いだ形にまとまった。


「……答えなよ、ナオミ」


 沈黙するナオミに、キーラは囁く。


「……そうだね。そこまで望むなら、答えるべきなんだろうね」


 ナオミはうつむいたまま、一つ小さくため息を吐いた。

 そして、わずかに首をひねった。艶やかな唇は、不敵な弧を描いていた。


「わかった。オーレリア『だけ』は安全に帰してあげようね」

「えっ……!」


 オーレリアは眼を見開き、キーラはカチリと歯を鳴らす。


「何も心配することはない。君だけは絶対に帰らせてあげるよ、オーレリア」

「せ、先生、それじゃ困るわ……! キーラも――!」

「それは駄目だね。だって私、この女のことが大嫌いだから」

「……初めて意見が一致したね」


 拘束されたまま器用に肩をすくめるナオミに、キーラは冷めた口調で同意する。

 ナオミはヒヒッと下卑た声で笑い――そして、表情を消した。


「……いつかわかるよ、オーレリア」


 今までになく静かな声に、オーレリアの震えが止まった。

 大きく見開かれたアイスブルーの瞳を見つめ、ナオミはどこか物憂げに笑った。


「……君は私と同類だ。だから、いつかきっと耐えられなくなる。……世界の無情と、己の卑小に。その時にきっと、君は私の名を呼ぶ。私の支配を求めるだろう」

「そんな日は来ないよ」


 笑うナオミの腕を締め上げ、キーラは冷やかなまなざしで彼女を見下ろす。


「君と彼女は違う。彼女が君の支配を求める日は、それこそ永遠にないNevermore

「ふん……まぁ、せいぜい足掻くといいよ」


 瞬間、ナオミの【色】がざわついた。

【黒】の環に、赤や緑の様々な【色】が走る。まるで黒い油に浮かぶ色彩を思わせるそれは魔法を使う際の前兆だと、キーラは理解していた。


「オーレリア! 下がれ!」


 キーラは叫び、ナオミの頭部を再び金網床に叩き付けようとした。

 しかし間に合わず、水面に衝撃が走った。

 閃光とともに、金網床の一部が破れる。一瞬バランスを崩したキーラの襟元に、黒い爪をしたナオミの手が伸びた。爆発的な水飛沫とともに、二つの影が水中に落ちていく。


「あ、ああ……」


 青い顔のまま、オーレリアは傾いだ金網床に座り込む。

 妖光の揺れ動く水面に、浮遊していたオマモリイルカンジ達が下降していった。

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