15.嘲笑う鴉

 キーラは、サイサルクスの中央に立っていた。


 相も変わらず、辺りには水晶円柱が放つピンクとブルーの光が揺れている。

 そこに今はおびただしい数のクラゲが浮かび、まるで幻覚のような景色となっていた。

 そんな目眩もするような妖光の中で、キーラの姿だけがただただ黒い。


 やがて、キーラは群青の瞳を細めた。


 彼方から、【黒】のさざ波が押し寄せてくる――と思った瞬間、それは目の前にあった。

 耳障りな叫びとともに、カラスの大群が出入口から流入する。

 矢の如くキーラの急所を狙うカラスに対し、周囲のクラゲ達が反応した。彼らはすぐさまキーラの元へと集まり、小さな透明な盾となった。

 柔らかな身がぱちぱちと弾け、毒にやられたカラスが次々に落下する。

 クラゲをかいくぐったカラスを襲うのはバテンカイトスだ。唸りを上げて振るわれるそれが光を切り裂き、カラスの頭を叩き割る。

 立て続けに散った血液が、表情のないキーラの顔を濡らした。

 そのままバトンの如く軽々と蛮刀を翻しつつ、キーラは神経を聴覚へと集中させた。

【色】の嵐の中で、【黒】の波紋が鳴動する。


「そう来るか」


 キーラは群青の瞳を見開き、振り向きざまに蛮刀を振るった。

 ピンクの妖光に、ぱっと青い火花が散る。

 バテンカイトスは、背後から突如として現われたナオミの一撃を弾き上げた。しかしナオミは打ち上げられた勢いのまま、大きく跳躍する。

 銀の円を描き、小太刀が大上段に振り上げられる。

 満足に身動きの取れない空中――そのうえあまりにも無防備な体勢。

 すぐさま迎撃しようとした。しかし、研ぎ澄まされた第六感が身体に警告を叩き込んだ。

 第六感が叫ぶままに、キーラは大きく後方へと飛ぶ。

 まさにその瞬間、銀の閃光がそれまでキーラが立っていた場所に叩き込まれた。

 轟音。金網床が大きくひしゃげ、水が壁の如く立ち上がる。


「……やっぱり重力を自分に加算してるな」


 立ち上る水煙の中で、ずぶ濡れのキーラは体勢を低くした。

 緩く右手を上げる。途端、何匹かのクラゲが即座に接近してくる。

 キタユウレイクラゲ――冷たい海域に棲息する赤褐色のクラゲだ。キーラが右手を振り払うと、それらはたてがみの如き触手を振り乱して突進する。

 立ち上る水霧の幕を裂き、その向こうのナオミへ――。

 閃光が踊る。クラゲ達は瞬く間に空中で切り裂かれ、水煙とともに消え去った。


「……まさか、効くと思ったのかね?」


 ため息を吐きながら、ナオミはくるくると小太刀を弄んだ。


「オーレリアの使い魔のことはよく知っている。……当然、対策もしているとも」

「でも、全然平気とはいかないだろう?」


 キーラはバテンカイトスを掲げる。

 それを合図に、今度はピンク色の薄闇からアンドンクラゲが現われる。

 透明な弾丸の如く迫るそれを、ナオミは鼻先で笑った。そうして軽く顎を揺らすと、周囲を旋回していたカラスが数匹軌道を変えた。

 漆黒の翼が透明な傘にぶち当たり、爪が触手を切り裂く。


「――爆撃!」


 キーラが叫んだ瞬間、無数のクラゲ達が金網床めがけて落ちてきた。

 ブラックシーネットル――暗紅色のそのクラゲは、長大な触手の内に猛毒を秘める。

 エチゼンクラゲ――極東に棲息する大型のクラゲだ。時折大量発生する。

 ビゼンクラゲ――おいしい。

 それらがゼラチン質の爆弾の如く、湿った風切り音とともにナオミめがけて落下する。


「やれやれ……」


 ナオミは苦笑しつつ、ほとんど浸水している金網床に踵を打ち付けた。

 水面に無数の波紋が浮かんだ。直後そこから、針状に凝縮された水が撃ち出された。

 まるで雨の映像を逆回しにしたような口径。

 透明な針に撃ち抜かれ、巨大クラゲ達は無残なゼラチン塊へと変えられる。湿っぽい音ともにクラゲの亡骸が降り注ぐ中、黒い影が水面を駆けた。

 漆黒の蛮刀がぶぅんと唸りを上げる。

 恐ろしい膂力とともに打ち下ろされたそれを、ナオミは難なく小太刀で受け止めた。


「……まだ、やるのかね?」


 ナオミは唇を吊り上げ、首を傾げる。濡れた黒髪から雫が滴った。

 その漆黒の瞳を見つめて、キーラは無表情でうなずいた。


「あともう少し」

「ほう……往生際の悪いことだね。いい加減諦めることを私は勧めるよ。君は元気いっぱいでも、どこかに隠れているオーレリアはどうかね?」

「……つくづくよく囀る女だな」


 ため息とともに、キーラはバテンカイトスにさらに力を込めた。


「そのわりに、私に決定打を与える事もできていない……人の殺し方を知らないのか?」


 ナオミの顔から、表情が消えた。

 能面のようなその顔を覗き込み、キーラはバテンカイトスを握っていない側の手を持ち上げた。そうして、濡れたタートルネックの襟元を指先で下げてみせる。

 存外に細い喉元が、ピンクの妖光に仄白く光った。


「ほら――私はここを一回斬るだけで殺せるよ」


 ゆるゆると自分の頸動脈を指先でなぞりつつ、キーラは笑った。

 漆黒の瞳が、針のように細められた。


「……そこだけじゃないよね。君を殺せる場所は」


 囁きとともに、水面にさざ波が走る。

 数百の波紋が走る。数百の波紋が収束し、数百の針の形を足元に紡ぐ。同時に、旋回するカラスの円が徐々に狭まっていく――。

 そんな光景を、キーラは無表情のまま視界の端で確認した。


「――仕舞いチェックだ、殺人鬼」


 噛み合う刃の向こうで、ナオミは艶やかな紫の唇を吊り上げる。

 重力転換――キーラの体は逆転する重力に逆らえず急浮上。間髪入れずに、水面から放たれた水の針が機関銃の如くその体の急所を悉く貫く。

 ダメ押しとばかりに叩き込まれた小太刀が、晒された喉笛を断つ。


 そうして最後には、カラスの群れが鳥葬の如く肉体を啄む。

 キーラ・ウェルズは、瞬く間に肉片となる。

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