11.教育の時間

「へぇ……でも、オーレリアの気持ちはどうかな」

「えっ……」


 急に二人に視線を向けられ、オーレリアはびくりと身を震わせた。

 ナオミは腕を組み、優しいまなざしを彼女に向ける。


「オーレリア……私とともにいる限り、君は他者に脅かされることはない。君の禍福は全て私に管理される。私は君に傷を与えるが、同時に幸福も与える」

「わ、わたしは……」

「君を真に理解できるのは、私だけだ」


 涙に濡れた眼を見開くオーレリアに、ナオミは緩やかに手を差し伸べる。

 漆黒の瞳は、奇妙な熱を孕んでオーレリアの姿を映していた。どこか恍惚とした揺らぎさえ感じる【色】に、キーラはわずかに眉をしかめる。


「私が君を生かしてやろう、オーレリア――だから、戻りたまえ」

「……結局命令か、ジグザグ先生」

「わ、わたし……わたしは、その……」


 ため息を吐くキーラの側で、オーレリアが視線を彷徨わせる。さんざんに苦しめられたはずの彼女の瞳には、それでもかすかな迷いがあった。

 それほどまでに――支配に心が揺らぐほどに、彼女は傷つけられてきた。

 キーラは、群青の瞳を虚空に向けた。


「……君の命をどうするかは君次第だ」


 そう囁き、オーレリアを見つめた群青の瞳は常よりもどこか揺れていた。


「逃げたいのなら、逃げればいい。死にたいのなら、死ねばいい。ナオミと行きたいなら、行けばいい。私は君の判断を尊重する――でも」


 囁きながら、キーラはそっと手を伸ばす。

 そうして、オーレリアの頬を手の甲でするりと撫でた。いつかも、キーラは同じようにオーレリアを撫でた。しかしその時よりも、どこかぎこちない手つきだった。


「……多分、君は変わりたいんだろう」


 オーレリアは息を飲んだ。

 群青の瞳を瞬かせ、キーラは珍しく困ったように視線を彷徨わせた。


「本当に死にたいのなら、私の一挙一足にあそこまで怯える必要はない。何度も自殺を試みたのは、その場所から逃げる手段が自殺しか思いつかなかったからだ」

「……う、く……」


 アイスブルーの瞳に、再び涙が滲んだ。

 ぼろぼろと膝へと落ちる雫を拭うこともなく、オーレリアはか細い声を漏らした。


「そして逃げたかったのは、自分自身からもだろう。弱くて、皆から嘲笑される――そんな自分から、逃げ出したくてたまらなかった」

「……ひっ……く、う……っ……」

「逃げることは悪いことじゃない。苦痛を避けるのは生物として当然の本能だ。……でも、どうせ逃げるのなら、もっと快適な場所に逃げた方がいいと私は思うけれど」


 淡々と、訥々と――。

 言葉を続けていたキーラは一瞬、無表情ながらも言葉に迷うそぶりを見せた。


「……違う自分になりたい。ここじゃないどこかに行きたい。新しい世界を感じたい」


 濡れたアイスブルーの瞳が、キーラを映す。

 まるで雨の降る青空を思わせるような色をしたその瞳を、キーラはじっと見つめた。


「恐れながらも、君は変化を望んでいる。――私には、そう見える」

「わっ……わたしは……」

「君は、君の望むようにすればいい」


 言葉を紡ごうとするオーレリアの珊瑚色の唇を、キーラはそっと人差し指で押さえた。

 涙に濡れた瞳を覗き込んで、躊躇いがちに言葉を重ねた。


「でも、私は……それでも君を描きたいと思っている」


 オーレリアの瞳から、一際煌めく涙が零れ落ちた。

 水晶の欠片のようなそれは足元で弾けて、指先ほどの大きさの白いクラゲへと変じた。


「いや、だったの……わたし……いやになったの、ぜんぶ……だから……」


 艶やかな唇が震え、熱い吐息を漏らした。

 気遣うように漂うクラゲ達を、オーレリアは力無く見上げた。

 そして涙を拭うと、オーレリアは濡れたアイスブルーの瞳をナオミに向ける。


「わたし……知らない景色を見に行きたいです、先生……」

「……そうか。残念だね」


 ナオミはぱちぱちと指を鳴らしながら、考え込んだ。


「……そうか……ふゥン……残念だね、本当に。どうするかね」

「どうもこうもないよ。話は終わったんだから、とっとと元の世界に返してくれないか」

「……そうだね。対話は終わったね」


 ナオミは渋い顔でうなずき、また一つ指を鳴らす。

【黒】――一番強い波紋。ナオミの指先に、今までになく力がこもっている。


「なら、これからは教育の時間だね」

「往生際が悪いよ、ジグザグ先生。彼女は結論を出した」


 どこかあっけらかんとした調子のナオミに、キーラは冷徹に言葉を叩き付けた。


「その結論が誤っているのなら、指導するのが大人の義務だよね。第一、君の存在は倫理と教育に悪すぎるよね。殺人鬼なんてね」

「君みたいな悪霊とつるむのは人生に悪すぎるよ」


 深海の瞳と、虚空の瞳とが睨み合う。

 そしてキーラは、おもむろに立ち上がった。


「十分だ。もう十分――君を殺して、私達は帰る」

「……正気かね?」


 ナオミは首を傾げ、唇を吊り上げた。

 一方のキーラは笑いもせず、バテンカイトスの柄に手を掛けた。


「私は君より正気だよ」

「――その言葉、きっと後悔するね」


 含み笑いをするナオミの顔面めがけ、キーラはバテンカイトスを振り下ろした。

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