10.空と海のように交わらない
「な、な、なん……えっ……?」
「こいつも不死なんだよ。たぶん、君とは違う仕組みなんだろうけど」
「……我々の場合はもう少し込み入っていてね」
ナオミは頭を拭い、深くため息を吐いた。額の傷は、もう完全に塞がっている。
震えるオーレリアの背中をさすり、キーラはナオミを睨んだ。
「……最初はただ、『変わった【色】だな』と思っただけだった。でも、やっとわかった。君の【色】のおかしさが」
神経を研ぎ澄ませる。途端、おびただしい数の【色】が目の前に迫ってくる。
電灯の【白銀】、モニターが唸る【蒼白】、オーレリアの呼吸の【乱れた青】――そんな寒々しい【色】の中央で、【色】がざわめいていた。
「……君、一体何人いる?」
「ヒヒッ、さすがだね。ノーヒントで辿り着いたのは君が初めてだ」
顔に似合わない声でナオミは笑って、小さく拍手した。
ぱちぱちぱちぱち。乾いた音にオーレリアは震えながら、キーラとナオミとを見た。
「何人……って……?」
「この女は、一人じゃない。一人のように見えてるけど、実際は複数人が一人の形を成している――あるいは擬態している。私には、そんなふうに視える」
キーラは耳から手を降ろした。
ナオミは、血に濡れた彫刻刀をテーブルに突き立てた。オーレリアがびくっと震えた。
「『何人』ねぇ……千人超えたあたりで数えるのが億劫になったねぇ」
ナオミはシニカルに唇を吊り上げると、視線を宙に向けて、なにかを数えるように繰り返し指を折り曲げた。しかし、どうやら途中で計測を諦めたらしい。
手を肘掛けに置くと、ゆったりとした口調でナオミは語った。
「正確な数は忘れたが……確かなのはね、私は文字通り一騎当千だと言うことだ」
「で、でも、先生は一人でしょう……? わたしには、一人にしか見えないけど……」
「今は体を一つに絞っているからね。だって『ナオミ・ヴァレンティナ・モーア』が何人も目の前に現われたら、君はきっと気絶してしまうだろう?」
額を抑えているオーレリアに、ナオミは優しく笑いかけた。
「……つまり、体を増やすこともできるんだ」
キーラは群青の瞳を細め、天井に人差し指を向けた。
「二階で死んでいるのは確かに君だった」
「正確には三人だよ。君が見かけた童子も私だ」
「ふん……なるほど。最初に二階であいつが出たのはそういうわけか。あれ以上、二階を――ロンドン・モーニングの厨房を調べられたら、ここがバレてしまうからだね」
「正直ねぇー、あの時めちゃくちゃ困ったんだよね。君、すっごいしつこいんだもんね」
無表情で鼻を慣らすキーラに、ナオミはおどけた様子で肩をすくめてみせる。
そして不意に、中空へと視線を向けた。
「……戦争、虐殺、天災、革命……色々覚えているけれど……一番古い記憶は天草の夕暮れで……死体に、カラスが群れているところだった」
語るナオミの口調はどこか茫洋としている。
黒い瞳は天井を通り越して、遥か彼方を見つめているようだった。
「私は……弱かった。誰よりも、弱かった。けれども、逃げるのは誰よりも得意だったから生き延びた……。生きたところで、逃げ道などないのに……そして餓え、死にかけて……そんな時だ。ヴィジターに襲われたのは」
ナオミはゆるゆると手を持ち上げると、額へと当てた。
オニキスにも似た瞳は艶やかで、そしてどこまでも暗い。まるで眼窩に闇がわだかまっているかのような漆黒の瞳を、キーラは黙ってみつめる。
「……最初は殺されても構わないと思ったんだ。でも、それは一瞬のことだ」
ごくり、と。ナオミが喉を鳴らす音が、妙に大きく聞こえた。
「――私は、ともかく腹が減っていた」
無言のキーラの隣で、オーレリアがひゅっと小さく息を飲んだ。
「た、食べたの……?」
オーレリアのかすれた問いかけに、ナオミはうっすらと笑った。
言葉はない。けれども表情だけで、彼女はその問いかけの全てを肯定していた。
「ヴィジターを、食べたの……? ど、どうやって……?」
「どうやったかは、正直覚えてないねぇ。生存本能がもたらした奇跡かもしれない――確かなのは、その時から私は複数になったということ」
ナオミは肩をすくめ、緩慢な所作で頬杖をついた。
「……私は、他者の存在を捕食する事ができるようになったんだよね」
肉体のみならず霊魂まで――。ナオミが捕食した相手は、彼女の内に取り込まれる。捕食した魂はナオミに支配され、記憶や技能もまたナオミに吸収されるらしい。
「彼らは基本的に自我を喪失している。暇潰しに自我を復元させることもあるけど、彼らは我々に支配され――我々が死亡した時には、その身代わりとなるわけだね」
「ゲームの残機みたいなもの?」
「そういうことになるね」
キーラの淡泊な言葉に、ナオミはにっと笑ってうなずいた。
「そして、私にはそれ以外にもいろいろできてね……この肉体は一見すると一つに見えるけど、実際は複数人の肉体を圧縮して作りだしたものなんだよね」
「ま、まさか……ヴィ、ヴィジターの能力……」
オーレリアは口元を覆い、ナオミの頭から爪先までに怯えた視線を向ける。
「肉体を組み合わせて、自分の器を作り出す……!」
「正解。えらいね。――まぁ、さすがに大人数を合わせるとそれなりの負荷はかかるけどね」
「ふん……体を増やせるのも、その応用というわけだ」
「ああ……そのとおり」
ナオミは唇をいっそう歪ませて、にぃやぁりと笑みを深めた。
「オーレリアと過ごした私も、君を妨害するためにこしらえた私も……そして今ここで呼吸する私も。肉体と霊魂を分け、自我をインストールした……紛れもない私本人なんだよね」
「……そ、それじゃ……」
か細い声に、キーラとナオミは視線をオーレリアへと向ける。
涙に濡れたアイスブルーの瞳を見開いて、オーレリアは呆然とナオミを見つめていた。
「わ、わたしに、優しくしてくれた先生は……どれなの……?」
悲痛に震える声に、ナオミはふっと微笑む。
ナオミはわずかにソファから身を乗り出すと、そっとオーレリアの頬に触れた。びくりと身を震わせ、オーレリアは不安と混乱の入り交じる視線で彼女を見る。
「全てだよ、オーレリア」
甘ったるく優しい声で、ナオミはオーレリアの名を呼ぶ。
「私はね、存在全てで君を特別に思っているんだよね。私はそこそこ長い時を生きてきたけれどね、君ほど好ましく興味深い存在はいなかった」
「な、なんで……それはわたしが、不死身だから……?」
「……ンン、それは難しい問いかけだね」
指を鳴らしながら、ナオミはしばらく考え込むようなそぶりを見せた。
今までになく真剣な表情だった。流動する【色】のざわめきも、やや落ち着いているように見える。どうやら、オーレリアにはそれなりに誠意を示しているようだ。
「最初は確かに、君の不死性に興味を持った……それは間違いない……しかし、ねェ……」
ナオミは瞑目し、わずかにうつむいた。
そして再び開いたその瞳にオーレリアを映すと、彼女は困ったように微笑んだ。
「理由を言語化できないがね……それでも、我々は君が好きだよ」
「す、すす、す……」
「うん。好きだ。この上なく、君は特別だ。――だから、私に全てを委ねたまえ」
真っ赤な頬を押さえていたオーレリアは、その言葉に停止する。
ナオミは黒い瞳を光らせて、椅子から身を乗り出した。
「オーレリア……君は特別だ。私は、君を失いたくはないんだ。君は不死だが、不変ではない。だから私は君に今のまま……永遠に無垢なままでいて欲しいんだよね。だから――」
「……ずっと可哀想なままでいてくれってこと? 悪趣味だな」
淡々と吐き捨てられた言葉に、一瞬時が止まった。
無言で視線を向けてくるナオミに対し、キーラは無表情で人差し指を突きつけた。
「つまり君はオーレリアを支配したい――それだけじゃないか」
「口の利き方に気をつけたまえ。本当に支配したいならとっくに捕食している」
ナオミの言葉は冷やかだった。
「オーレリアには、自我を許す。私が彼女の内心に干渉することはない。――今までと何も変わりないね。彼女は私の管理下においては完全に自由だよね」
「君は放し飼いの家畜が自由だと宣うのか?」
キーラは、心底くだらないものを見るようなまなざしでナオミを見つめた。
「君が好きなのは『オーレリア』じゃない。『可哀想なオーレリア』だ」
「何を言う。私はオーレリアを心から愛しているよ」
「へぇ。愛しているのに傷つけるのか」
「わかってないね。一番大切だから一番深い傷を与えてやりたいんだよね」
「わかりたくもない。こっちは誰かを傷つけないでいるのも一苦労な性分なのに」
淡々と言い争う。淡々となじり合う。
やがてナオミは黒い瞳を伏せると、なにやら思案顔で何度か指を鳴らす。
ぱち、ぱち――乾いた音が響くたび、【黒】の波紋がナオミの指からじりじりと広がる。キーラはその【色】に眉を寄せ、オーレリアはその音にいちいち身を固くした。
「……君、帰りたいんだったね」
やがて黒く塗った爪で、ナオミはキーラを指差した。
「帰らせてあげるよ。ここをハルキゲニアに落としたのは私だし、人間界に戻すことは造作もない。――だから、オーレリアのことは諦めたまえ」
「……待ってくれ。理解できない。君は一体、何を言っているんだ?」
キーラは群青の瞳を見開き、心底困惑しきった顔でナオミを見つめ返した。
「私はさっき『君を殺す』と宣告したはずだ。なのに、どうして私が大人しく帰るだなんて都合のいい妄想ができるんだ?」
「……ほう?」
塗り潰されたように黒い瞳を、ナオミは細めた。
それを真っ向から群青の瞳で見つめて、キーラは逆にナオミへと人差し指を向ける。
「私は君を殺す。そして、オーレリアと一緒に帰る」
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