7.おまえはわたしのもの

「――疲れたから、甘い物が欲しいだろうね」


 言いながら、ナオミはホットチョコレートにマシュマロを落とした。

 監視室の一角は本棚で区切られ、そこに軽くくつろげるようなスペースが用意されていた。

 ナオミは革張りのソファに腰掛け、ホットチョコレートを作っている。

 その向かいの肘掛け椅子で、オーレリアは震えていた。


「……せ、先生も……」


 椅子ごとがたがたと震えながら、オーレリアはか細い声でたずねた。

 ナオミはマシュマロ入りのホットチョコレートを彼女の前に置いた。そして自身はウィスキーの入ったロックグラスを手にして、肘掛け椅子に腰掛ける。


「ん? どうしたんだね?」

「先生も……ド、ドアーズ、だったの……?」

「いや――正確には、私は第七天国だね」

「だ、だいなな……てんごく……」


 いっそう青ざめるオーレリアをよそに、ナオミは酒に口を付けた。そして肘掛けに頬杖をつくと、鷹揚な所作でオーレリアを見つめる。


「……第七天国は壊滅した。その生き残りが実験として立ち上げた後継組織が、ドアーズだ」

「な、なんの実験の、ために……?」

「人類という種の進化だね」


 ナオミは微笑み、虚空に目を向けた。漆黒の瞳が懐かしむように細められる。


「……でも、常人を多数取り込んだことと、時の経過による社会の変容と……様々な要因によって、ドアーズは『進化』というよりは『現実逃避』の組織となった」

「げ、現実逃避……?」

「……『ドア』ってさ、出ていくためのものでもあるんだよね」


 ナオミはパチリと指を鳴らし、肩をすくめた。


「当初人類の進化を目指していた組織は、いつしか人類からの脱却を目指すようになった。『あんな生物と同種族でいたくない』――そんな単純な妄想が、それまで対立していたメイジと常人で完全一致してしまったんだよね」

「そ、それじゃドアーズは、もう人間をやめるための組織になりつつあるってこと……?」

「でも、彼らは自分達こそが人間だと思っているんだよね」


 ドアーズに所属する者は、進化を止めるわけにはいかない。

 進化できなければ、唾棄すべき『旧世代の猿ども』と同類だからだ。だから彼らは日夜進化のために奇妙な研究を続け、鍵を握る異界へと接近しようとしている。

 しかし、そう易々と生物が進化できるはずもない。

 進化が進まないのならば、『旧世代の猿ども』と自分達とをどう差別化するか。


「だから『淘汰』という発想に行き着いたわけだ。自分達以外全員いなくなれば、いちいち比較する必要もなくなるものね。……もはや強迫観念だよねぇ」


 肩を震わせて、ナオミはヒヒッと笑った。オーレリアはその笑い声にさえ縮み上がった。

 可哀想なほどに震える彼女を見つめて、ナオミは一転して優しく微笑む。


「……大丈夫かね? なんなら、少し眠ってもいいんだよ?」

「へ、平気、です……」


 オーレリアは肩を抱き締め、深呼吸を繰り返す。

 ナオミの瞳はオニキスのように艶やかだが、感情が読めない。キーラとは違った種類のまなざしだ。光を反射しているのに、捉えどころがない。

 かつては見つめるはずに安堵したはずのそのまなざしが、今は不安を掻き立てる。

 オーレリアは視線を彷徨わせ、震えながら口を開いた。


「……ド、ドアーズは……このホテルを使って、ハルキゲニアとの境界に穴を開けるつもりなんですよね……? それも、淘汰のため……?」

「そうだね」


 ナオミはうなずくと、ロックグラスに手を伸ばした。

 グラスと丸い氷が触れあう音に、オーレリアは飛び上がらんばかりに大きく震えた。


「た、たくさん、ひどい死体を、見たわ……」

「かわいそうにね。怖い思いをしただろう」


 ナオミは肩をすくめて、ウィスキーに口を付ける。

 オーレリアは血の気の失せた顔で、ゆっくりと酒を混ぜるナオミを見つめた。


「せ、先生も……関わっていたの……先生も、やったの……?」

「ああ、やったね」

「どうして、どうして……ッ!」


 オーレリアは、ついに泣き出した。

 アイスブルーの瞳から涙を零し、肩を震わせながらオーレリアは声を引き絞る。


「せ、先生は、わたしを助けてくれた人なのに……ッ!」


 青白い頬を透明な雫で濡らして、オーレリアは悲痛な声を上げた。青黒い影は嵐の海の如く荒れ狂っている。涙が滴るたび、そこから弾けるようにしてクラゲが生じる。

 ナオミはじっとその姿を見つめていたが、やがて立ち上がった。

 泣きじゃくるオーレリアに近づくと、躊躇いもなく肩をそっと抱き締める。

 オーレリアは一瞬、体を強張らせた。しかし慣れ親しんだナオミの体温と、彼女がかすかに纏う重たい薔薇の香水のにおいとが、その緊張を一気に破壊した。

 慟哭を抑えきれず、ナオミの肩に縋り付いて赤子のように声を上げて泣き叫んだ。


「……ねぇ、君。初めて私と出会った日を覚えているかね?」


 柔らかなその髪を優しく撫でながら、ナオミは囁いた。

 ナオミの肩に顔を埋めたまま、オーレリアはか細い声を漏らす。


「あれは……きゅ、九回目の自殺で……飛び降りたところを、介抱されて……」

「そうだね。顔を合わせたのはあれが初めてだね」

「え……?」

「私が君を知ったのはね、最初の自殺の時だよ――ほら、湖で入水自殺した時」

 

 ナオミの囁きを聞いた途端、オーレリアの脳裏に故郷の湖の光景が鮮やかに蘇った。


 灰色の空。真冬の湖。奇妙な声で鳴くカラス。

 誘われるようにして踏み込んだ。泡の破片が星のように煌めく青黒い闇に、血の帯を引いて沈んでいった。凍てつく水の中で、紅色のクラゲが――。


「――実はね。陸に上がった時には、君はもう死んでいたんだよね」


 オーレリアは、眼を見開いた。


「九回にも及ぶ君の自殺は、実際のところ全て成功していたんだ。――君は不死身の存在なんだよ、オーレリア」

「な、なにを言って――」

「試してみようか」

「え――」


 瞬間、冷たいアイスピックが頸髄を突き破った。

 自らの腕の中で崩れ落ちるオーレリアを、ナオミは微笑したまま見下ろしていた。

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