8.大鴉

【錆色】【鈍色】【錆色】【鈍色】――二色の駆動音が響いている。

 それが先ほどから視界を覆ういやな【色】の幕に突き刺さって、不愉快で仕方がない。

 キーラは、ひたすら目の前の扉を見つめ続けた。


『そういえばさ、オーレリアちゃんは大丈夫?』――電話はまだ繋がっている。

「死んだよ」キーラは短く答えた。


 一瞬の沈黙があった。やがて、レティシアのやや硬い声が聞こえた。


『死んだの?』

「死んだよ。よくある話だろう」

『それは……そうだけど。あんた、大丈夫なの?』

「なにが?」

『レティが言いたいのはさぁ』


 シドニーの声の後で、麺をすする音が聞こえた。そのうえスナックの袋ががさがさと鳴る音も聞こえた。この状況下で、この女はついに夜食を始めたらしい。


『わりと気に入ってた子が死んで、今どんな気持ちってことさ』

『……シドニー。あんたね、言葉は選びなさい。面倒ごとはやめて』

『僕ね、君のことは友達だと思っているよ。でも、理解できないと思っている』


 レティシアの制止も無視して、シドニーは話し続ける。


『テラーにだって感情はある。たとえば僕は家族が大好きだし、弟のジョシュアはこの世で一番大切だ――。でも、君はいまだかつてそんな執着を見せたことがない――オーレリアを除いて、ね』


 表情が目に浮かぶようだ。恐らくいつも彼女が拷問をする時の表情と同じだろう。

 顔だけは楽しげだが、オレンジの瞳は奇妙な冷たさを持っている。


『君はなににも執着しないから、なにを殺してもなにも感じない。善人も悪人も、かつての仲間だって依頼や指示があれば平気で殺した。で、次の日には涼しい顔をして絵を描いてる。――さてと。オーレリアは死んだんだよね?』


 そしてシドニーは、天気を聞くような軽い調子で問いかける。


『それで君、どうだい? 彼女を失っても、絵を描けるのかな?』


 キーラは、表情を変えなかった。

 光を吸い込むような群青の瞳に一切の揺らぎもなく、鋼鉄の扉をひたりと見つめている。


「人は死ぬんだよ。いつでも、どこでも、誰であっても」


 口調に淀みはなく、声音に変わりはない。


「今さら人間の死に思うことはない。満足な最期であっても、理不尽な末路であっても――生まれたなら、人間は死ぬ。それはどうしようもないことだ」

『…………でも理不尽に生命を奪われたなら、まず正気じゃいられないけどね』


 相変わらず、シドニーの声は軽い。しかし、わずかに不機嫌そうな【色】が滲むのが視えた。

 レティシアは黙り込んでいる。恐らく、彼女もキーラの答えが不満なのだろう。

 それでも、キーラは淡々と言葉を続ける。


「テラーとして自覚してしまったからには、殺しの螺旋からは逃れられない。……そして人間という生物の馬鹿みたいに長い一生だ。誰か一人の死に気を向けていてもキリがない。昨日描いた誰かが死んだなら、今日は別の誰かを描く。私はそれだけ」


 キーラは一瞬、目を伏せた。

 青みを帯びた赤髪が、白皙の美貌にはらりとかかる。それを億劫そうにゆっくりと払い、後頭部へと流しながら、キーラはため息を吐いた。


「――それだけ。それだけだよ、人生なんてね」

『……ァアアー、モアァアアア……』


 奇怪な声が電話の向こうで聞こえた。キーラは流石に眉をひそめる。


「今の声は……?」

『わっ、こいつ! まだ生きてたのか!』


 シドニーの悪態が響く。椅子が軋む音、足音――そして、声。


『エワァアアアアア……!』

『メイジの胸をブチ破ったカラスよ。死んだと思ってたけど、まだ生きてたみたい』

『うわぁー、グロッ……ちょっと写真を撮っとくか』

『とっととそいつを黙らせて! ――ったく、まるで『大鴉』だわ』


 レティシアはぼやく。それに対して、シドニーがなにか文句を言ったようだ。

 しかし、キーラには聞こえていなかった。


「……大鴉?」

『ほら、エドガー・アラン・ポーの詩よ。あのカラス、まるで『二度とないNevermore』って鳴いているみたいでしょう? 詩に出てくるカラスにそっくりだわ』


 レティシアの声に、キーラは群青の瞳を見開く。

「……ある物寂しい夜更けのことOnce upon a midnight dreary, 私は弱り果て、疲れ果てながらもwhile I pondered, weak and weary,忘れ去られた伝承のOver many a quaint奇妙で趣のある and curious数多の書物について考え込んでいたvolume of forgotten lore,……」

『そう、それよ。あの詩に出てくるカラスにそっくりだわ』

「……恐ろしくも厳めしきGhastly grim and ancient raven 夜の帳を流離ういにしえの大鴉よwandering from the nightly shore-夜の冥府にましますそなたの御名をTell me what thy lordly name is教えてくれないか on the Night's Plutonian shore!

大鴉は答えたQuoth the raven, 。――決してない`Nevermore.


 シドニーの退屈そうな声を聞きながら、キーラは口元を覆った。

 物寂しい詩だ。恋人の死に打ちひしがれる学生の元に大鴉が迷い込み、『Nevermore』と繰り返す。大鴉の問答の末に学生は発狂してしまう――。


「あの詩の主人公は、恋人の喪失に打ちのめされていたね。その恋人の名前は、なんだったかな」

『レノーアだけど。――何? こんな時に詩の講義をしてほしいわけ?』

「いや、十分だ……もう十分、わかった」


 キーラは目を伏せると、狭いエレベーターの天井を仰いだ。


 二階で首を裂かれたオーレリア――九階で殺されたオーレリア――「……ここ、先生のお気に入りなの」――ラウンジでたじろぐロバートの【色】――き、ぃ、ぃ、ぃ――あの白い亀裂を唯一視なかった場所――『私のレノーアは永遠だ』――。


 脳内で荒れ狂う色彩が組み合わさり、一つの絵を描きあげていく。

 それが完全に形になった瞬間、キーラはゆっくりと呼吸した。


「――黒幕の正体は想像がついていた」


 悲鳴のようなブレーキ音が響く。エレベーターが、ゆっくりと減速していく。

 その音も耳に入らず、キーラは深呼吸を繰り返す。


「手段はわからない。想像しようもない。でも……動機は、理解できたと思う」

『ふーん、そいつはいいや。――で? 帰ってこれるわけ?』


 のんきなシドニーの声がスマートフォンの向こうから聞こえた。


『葬儀屋の手配でもしてやろうか、殺人鯨オルカ?』

「――自分の棺桶でも用意しておけ、死線の紡ぎ手タランテラ・フリーク


 キーラは電話を切った。

 開いていく扉の隙間から、素っ気ない薄暗い灰色の廊下が見えた。

 その景色を、【蛍光色】の波紋が染めている。

 おびびただしい数のヴィジターが、キーラを出迎えた。

 人間の体を、いびつに引き延ばせばこんな姿になるかもしれない。四肢は細長く、均整がとれていない。皮膚が溶け落ちたような体表は、マゼンタ色にぬめっている。

 頭部からは白い棘が冠の如く伸び、裂けた大顎からは白い歯がめちゃくちゃに伸びていた。

 奇怪な笑い声がはじけ、シアンの舌がからかうようにのたくった。

 扉が完全に開ききった瞬間、王冠のヴィジターは狭苦しい小さな箱めがけ――。


「動くな」


 時が止まった。

 ゴムのようにしなる両腕が硬直する。おぞましい歯を剥き出しにしたまま、王冠のヴィジター達は互いに顔を見合わせるようなそぶりを見せた。

 明らかに困惑するヴィジター達の前に、キーラは悠然と踏み出した。

 バテンカイトスは腰に携えたまま。

 さながら指揮者の如く、白い手が優雅にひるがえる。


「じゃあ――やろうか」


 そして、ヴィジター達は二つのことを知った。

 何故、停止したのか。

 何故、一番最初に彼女を襲ったヴィジターが死んだのか。

 それは自殺を選ぶほどの『恐怖』という感情によるものだと――骨の髄まで、刻み込まれた。

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