6.『呪い』『憎悪』『裏切り』『偽り』

 降りる。降りる。降りる。


 歪んだ廊下を抜け、捩れた階段を飛び――そうしてキーラは二階に降り立った。

 冷たい美貌は蛍光色の血に濡れているものの、傷一つない。


 キーラはまっすぐに廊下を進んだ。

 魔獣の体内の如く変貌した空間には、様々な花が生じつつあった。

 壁には鬱蒼と黒百合がしげり、床には黒薔薇が咲いている。天井からはハナズオウの枝が下がり、柱にはホオズキにもホヤにも似た奇妙な膨らみが光っていた。

 そして、赤く光る亀裂が壁一面に生じている。

 なんらかの限界を告げるそれを無視して、キーラは二階のホールへと進んだ。

 ガラス壁の向こうで赤い天体が燃え、青い雲は蜃気楼の如く揺れている。赤い光と青い影がコントラストを描く中、キーラの顔はいつもと変わらず表情がない。


 ――スマートフォンが鳴った。


 映像通話ではない。キーラは目を細めると、受話器のボタンをタップする。


『――あたしよ。生きてる?』


 レティシアの声だった。


「そっちこそ。――なんでシドニーのスマホからかけてるの?」

『あたしのスマホが壊れたからよ。ったく……ところで、いろいろとわかったわよ』

「へぇ、それはそれは」

『ドアーズのメイジを一人捕まえたのよ。で、シドニーがいろいろと引き出したの』

「……映像通話じゃないということは、ずいぶん過激にやったね?」

『ほんと、あの子の現場はいつも過激よ。死線の紡ぎ手タランテラ・フリークなんて呼び名がつくだけのことはあるわ。――で、新情報だけど」


『あちらさんも予想外のことが起きてるみたい』――レティシアは億劫そうな口調で語った。


 曰く、ホテルがいまだ二つの世界の境界にあることはおかしいのだという。


「……どういうこと?」

『ホテルは昨日の時点で完全にハルキゲニアに落ちてないといけなかったみたい。それで境界に大穴が穿たれて、二つの世界が混ざってしまうはずだった……でも、実際は』

「ホテルは宙ぶらりんのまま」


 短く答えながら、キーラは廊下の角を曲がる。


「キョ、キョキョ、キョ……!」


 青いワンピースの女が奇声をあげながら、襲ってきた。肩からは炎の如く触手が揺らめき、眼球はカタツムリのそれのような奇妙な形状に変異している。

 キーラは薙ぎ払われる大鋏をすり抜け、ヴィジターの頭を鷲掴んだ。


「キョゴッ――!」


 蛍光色の血が壁面に飛び散る。そのまま動きを止めず、キーラは女の首筋にバテンカイトスを振り下ろした。女の体が大きく震え、そして動かなくなった。

 死体を蹴り飛ばし、キーラは再びスマートフォンを耳に当てた。


「だから『話が違う』というわけだ。ロバートはそんなこと一言も言っていなかったな」

『それなんだけど、どうもロバートよりも上級の幹部が絡んでいるみたいなのよ。多分、そいつが何かロバートに吹き込んだんじゃないの?』

「……その上級の幹部がどこにいるかとか、言ってなかった?」

『言う前に死んじゃったのよ。……信じられないだろうけど、カラスが胸を突き破ってね』

「信じるさ。よくある話だ」

『ところで、あんた達は今どうしてるの? あれからどうなった?』

「黒幕のところに向かってる」

「は……? 相手の居場所に心当たりがあるわけ?」

「心当たりというほどのものじゃない」


 首を振りつつ、キーラは廊下を足早に進む。

 変異はますます進み、あらゆるものが赤や青の血管めいた管によって絡め取られていた。


「ポイントは三つ――まず、私達はこのホテルに入った時点で監視されている」

『あー……君、そういえば』


 シドニーの声がした。どうやらレティシアはスピーカーモードで話しているらしい。

 同時にブルーシートの擦れるような乾いた音と、粘つくような水音が聞こえた。


 ……どうやら、ずいぶん過激に散らかしたようだ。


『最初の夜に『部屋のどこかから耳障りな音がする』って言ってたね』

「ああ……多分、盗聴器の音だ」


 き、ぃ、ぃ、ぃ――会話の間も、意識すれば【白】い亀裂が視界に割り込んでくる。

 キーラはそれを見つめて、うなずいた。


「こいつはある場所を除いて、ホテル中に仕込まれている。恐らくは監視カメラの類もあるんだろうね。なら、全てのデータを管理する監視室のようなものがあるはずだ」

『……一定規模の建物なら、中央管理室があるわよね』


 考え込むような口調で、レティシアが言う。


『ホテルがドアーズの支配するものなら、そこで監視を……』

『でもさ、表向きにはここは普通のホテルなんだぜ? そんな客室まで監視してるような違法まっしぐらな代物を、わざわざ目立つ場所に置くかなぁ?』

「そうだ。隠す必要がある。――あらゆるモノからね」


 シドニーに同意しながら、キーラはある施設へと足を踏み入れた。

 ロンドン・モーニング――変異は、店内にも及んでいた。

 店全体が花やら海綿やらに埋め尽くされ、海底の花畑のようになっていた。肉塊の怪物の死体は、溶解して蛍光色の泥のようになっている。

 そして――白いテーブルクロスの塊が、先日と変わらずそこにあった。


「大事なのは、ここがドアーズの支配するホテルだと言うことだ。――骨の髄まで、ね」


 キーラは、躊躇いなくテーブルクロスを剥がした。

 今朝と変わらず、ナオミの死体がそこにある。広がる黒髪、伏せられた瞼、紫のリップを塗った唇――青白い首筋には、無残な裂傷が刻み込まれていた。


「ふん……」


 キーラは目を細めると、ナオミの死体を靴の爪先で軽くつついた。

 死体は揺れるばかりで、動きはしない。


『……どうしたの、キーラ?』

「いや。なんでも」


 涼しい顔でレティシアに答えつつ、キーラは厨房へと足を踏み入れる。


「カ、カ、カ……」――相も変わらず一面に人間が広がっていた。しかし、どういうわけかこの厨房の惨状は今朝からほとんど変わっていない。


 キーラはまっすぐ厨房の奥へと突き進む。

 突き当たりには、今朝と同じように作業用デスクと配膳用エレベーターとがあった。キーラは作業用デスクには目もくれず、配膳用エレベーターの前に立った。

 相変わらず、地下一階のボタンには『故障中』の貼紙がされていた。


「ずっと気になっていたんだ……」

『んー、何が?』


 シドニーの声とともにサクッと軽い音がした。この女はこの状況で菓子を食っているらしい。


「配膳用エレベーターだ」


 キーラは配膳用エレベーターのボタンに手を伸ばす。

 上昇ボタンと下降ボタン――そのうちの下降ボタンをキーラは押した。途端、配膳用エレベーターは悲鳴のような音を立てる。


「なにかがおかしいと思っていた……でも、やっとわかったよ」


 やかましい動作音が停止した。

 銀色の自動扉が開く。狭苦しい鋼鉄の空間が、目の前に広がった。

 内部は薄暗いが、奇妙な変異は起きていない。

 エレベーターに乗り込むと、キーラは内部で光る七つのボタンを見た。

 3、4、5、6、7、8――。

 『故障中』の紙の下には、B1のボタンが点灯している。


「客室は三階から八階までだ。一階はロビーだから配膳の必要はない。九階は二階と同じようにレストランとかが集合するフロアで、ここにも食事を運ぶ意味はない。十階に至っては飲食禁止のコンサートホールだ。地下にあるのはプールとエステサロン――さて」


 キーラは群青の瞳を細めると、ある一点へと指を伸ばした。

 ――『故障中』の素っ気ない貼紙へ。


「……なんで地下に行くボタンがあるんだろうね?」


 キーラはB1のボタンを押す。鋼鉄の箱は、下降を始めた。

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