5.不滅
――水底に、沈んでいく。
透明な泡と氷のかけらとが、青黒い闇に煌めいている。
あの闇の底には、罵倒も、嘲笑も、侮蔑もない。
きっと永遠の静寂と、まどろむような安寧だけがそこにある。
そう思うと、ようやく安らげる気がした。
ゆっくりと霞みゆく視界の中で、無意識に水面を見上げる。
――奇妙なクラゲの姿が目に映った。
ごく小さなクラゲだった。透明な傘の内に、熟れたホオズキのように真っ赤な器官を内包している。
それは大きく傘を動かすと、透明な弾丸の如く自分の口へと飛び込んできた。
ゼラチン質の感触が一気に喉を通過するのがわかった。
突然の事に、水中で体が跳ね上がる。
泡が乱れ、影が揺らぎ――そして――オーレリアは、我に返った。
「えっ……あ、あれ……?」
オーレリアははっと我に返り、ぱちぱちとまばたきをした。
つい先ほどまで、自分はレッドサン・パレスホテルの九階にいたはずだった。
しかし、今はまるきり違う場所にいる。
広々とした空間だった。四方はコンクリートの壁に囲まれ、それを埋め尽くすようにおびただしい数のモニターが固定されている。
見上げた天井には、蛍光灯が煌々と点っていた。
ぶぅぅぅぅぅん――先ほどから聞こえる音は、モニターか蛍光灯の駆動音のようだった。
「えっ、えっ、なに……? ここ、どこ……?」
不安に駆られたオーレリアは、落ち着きなく周囲の状態と自分の様子とに視線を向ける。
オーレリアは、革張りの肘掛け椅子に座っていた。
月長石のブローチを落ち着きなく握りしめて、オーレリアは頭を押さえた。
「な、なんで……なにが起きたの……? わたしは、確かに九階に――うっ、痛!」
眉間の中央を触れた途端、鈍い痛みが走った。
オーレリアは顔をしかめつつも立ち上がり、とりあえずオマモリミズクラゲを呼び出した。
「ねぇ、ここがどこだかわかる……?」
ふよふよと浮かぶ三匹のクラゲは何も答えず、ゆっくりと宙を滑る。
とりあえずオーレリアは身を縮めながら、クラゲ達の後に続いた。クラゲはやがて壁面にたどり着き、いくつかのモニターを示すようにぽこんと体当たりをする。
「これは……」
青白く光るモニターを、オーレリアは怖々と覗き込んだ。
そこに映っているのは、ホテルの一室のようだった。どうやらリビングルームに当たる部屋なのか、大きなソファやテーブルが映っている。
その家具の配置に、見覚えがあった。
「これ、三階のパレスルーム……」
モニターの下には、『三〇一:A』と記されたプレートがある。下には『三〇一:b』のモニターがあり、ここにはベッドルームが投影されているようだった。
「どういうこと……?」
オーレリアは口元を覆い、歩きながらモニターを確認する。
『三〇二』――『三〇三』――『三〇五』――『四〇一』――『四〇二』――『四〇三』――。
あらゆる部屋を、オーレリアはモニター越しに見た。
確認した限りではシングルの部屋では一台のモニター、パレスルームやスイートルームなどの大規模な部屋ではおよそ三台のモニターがその映像を投影している。
そして、映像は客室だけではない。
「こ、これ、一階のロビー! 二階のレストランに……な、七階の廊下……!」
仄暗い玄関、血の海のようなプール、ぶくぶくと膨れ上がった植物が繁茂する奇妙な屋上庭園、赤い光の差し込む二階に、レストラン『グランドレイク』、傾斜している七階の廊下――。
「ず、ずっと……監視されてたの……?」
青白く光るモニターの群れから後ずさり、オーレリアは呆然とする。
「つ、つまりドアーズは……ずっと、ずっと前から、こんなに、ひどいことを……?」
「――ああ、起きたのかね」
背後から響いた声に、オーレリアはびくりと震えた。
聞き慣れた声だった。安らぎさえ感じるほどに聞き馴染んだ声だった。
しかしその声が響いた瞬間、それまで周囲を漂っていたクラゲ達が一気に距離を詰めた。
――まるで、声の主がオーレリアにとっての脅威であるかのように。
「悪いね。あんな乱暴なやり方になってしまって。でも、ああした方が運びやすいから仕方がないよね。――それで、体の具合はどうかね?」
「え、え……」
近づいてくる靴の音もまた聞き慣れたもので、オーレリアは狼狽える。
声の主は当然のようにオーレリアの前に立った。黒のマニキュアが艶やかな手が躊躇うことなく伸ばされ、オーレリアの前髪を軽く払った。
そうして額に触れてきた掌は、温かかった。まるで生きているかのようだった。
けれども彼女は、とっくのとうに死んだはず。
「……熱はないね」
「そ、そんな……ど、どうして……」
「まぁ……いろいろあったからね。お互い積もる話もあるだろう」
青ざめていくオーレリアの顔を、彼女は覗き込んだ。
腰に流れる黒髪、オニキスの瞳。紫に塗られた唇が、優しく微笑んでいる。
「少しだけ話そうかね、オーレリア。彼女が来るまで」
「ナオミ……先生……」
彼女は小さく笑って、黒髪を軽く払った。
切り裂かれたはずの首筋はどこまでも白く、傷一つない。
生きていた。
紛れもなく彼女は――ナオミ・ヴァレンティナ・モーアは、生きていた。
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