4.ねがい

 当初は一階の様子を確認でき次第、ある程度上の階まで進むことを検討していた。

 しかし、キーラはいったん三〇四号室に戻ることにした。


 第一の理由は、キーラの感覚に万全を期すため。

 第二の理由は、シドニーとレティシアに経過をたずねるため。

 そして第三にして最大の理由は、オーレリアがそろそろ限界だったためだ。


「…………なにを描いているの?」


 ベッドに沈み込むオーレリアが、か細い声を発する。白い毛布にすっぽりとくるまり、周囲には二、三匹のオマモリミズクラゲが漂っていた。


「外」――窓際の椅子に座るキーラは、ごく簡潔に答えた。


 カーテンは開け放たれ、シアンとマゼンタの入り乱れる空が一面に広がっている。

 赤い天体の輝きは禍々しく、そのくせ太陽とは違って熱を感じない。

 そんな輝きの注ぐ湖を、キーラは水彩で描いていた。

 白い毛布を肩から被った状態で、オーレリアはスケッチブックをこわごわ覗き込んできた。


「……な、なんで、こんな色で描いてるの?」

「私が感じるように描いてるから」


 キーラの描く絵には、様々な色彩が混じり合っている。

 色も濃度も異なるそれらは奇妙な調和をなし、光や風さえも再現しているように見えた。

 しかし――オーレリアは、ぶるりと震えた。


「綺麗な絵だけど……なんだか、見てるとくらくらしてくるわ……」

「それでいいんだよ」


 キーラはスケッチブックに視線を向けたまま、どこか満足げにうなずいた。


『精神のカオスの具現』――キーラの描く絵は、名だたる画壇でそのように評された。

 繊細な筆致と奇抜な色彩によって紡がれる絵画は、技術面では他を圧倒していた。構図は大胆かつ奔放で、徹底的な観察による緻密な描写には独特の緊張感が漂う。

 しかし――人は、キーラの描く絵に独特の寒気と不安を見出すらしい。

 ブランコの揺れる木を描けば、薄闇に人外の獣が潜んでいるように見える。黄昏のカフェテリアを描けば、到底人間には思えない人影が揺れている。

 それが人々の脳を揺らし、感覚を狂わせ、悪寒と目眩とを引き起こす。


「私の絵を気に入る人間なんて、ろくな奴はいないよ」

「……な、なのに私を描きたいの?」

「描きたいね」


 キーラは無表情でうなずきつつ、奇抜な銀の線を奇妙な色の水面に描き足した。

 オーレリアは、困ったように視線を彷徨わせる。


「……さっきの男の人……どうなったの?」

「ああ、あれか。まぁ、なんというか、散らかしちゃってね」

「……なにを?」

「大丈夫。覚えていたら片付けておくから」

「なにを……?」


 口調こそ問いかけていたものの、オーレリアは疲れ切った様子だった。

 ずるずると体を引きずるようにして向かいの肘掛け椅子へと移動し、崩れ落ちる。足元の陰は不規則にざわめき、波打つたびに何匹かのクラゲを生み出した。

 そんな様をちらりと見て、キーラは口を開いた。


「……そういえば、さっきさ」

「な、なに?」

「なんで逃げなかったの?」


 ぐったりと椅子に沈み込んでいたオーレリアは、きょとんとした顔で体を起こした。

 キーラは銀の点を加えつつ、言葉を続けた。


「ライフルの男さ。撃たれたかもしれないのに、君は逃げなかった」

「そ、それは……」

「逃げればよかったんだよ。私ならすぐ回復して、追いつけたのに。どうして?」


 眉一つ動かさず、キーラは淡々と問いかける。

 オーレリアは視線を落ち着きなく動かし、叱られた子供のように身を縮めた。


「……いや……だったから……」

「嫌? なにが? 別に逃げることは恥ずかしくも――」

「わ、わたし……逃げたら……あ、貴女が……撃たれちゃう……」


 キーラは、一瞬だけ筆を止めた。しかしすぐに、銀の線を紙面に走らせた。


「あの状態でも大丈夫だよ。ヴェーラに――殺しの師にあたる人に、色々と仕込まれたからね」

「で、でも怪我しちゃう……わたし……貴女に怪我して欲しくない……」


 オーレリアは頭を抱えこみ、ゆるゆると首を振る。

 淡々と畳みかけるようなキーラの問いかけに怯んだのか、アイスブルーの瞳は潤んでいた。


「傷を負うのは私だ。君は何も気にしなくともいい」

「よ、よくないわ……!」


 キーラは筆を止めた。

 オーレリアは何度も首を振りながら、震える肩を抱き締めた。


「わたしは……手首を切るわ……何度も切ったわ……それだけじゃない……死にたくて、死にたくて……九回、自殺を図ったの……でも全部、失敗した……」

「…………逆に生きる才能があるのでは?」

「生きたくない……生きる意味がない……生きたくなかった……なんで生きてるの……?」


 キーラの指摘も耳に入っていない様子で、オーレリアは言葉を続けた。

 呼吸が乱れてきていた。肩が不規則に上下している。

 さすがに立ち上がろうとするキーラの動きを、オーレリアは手で制した。


「……先生のおかげで……だいぶ持ち直したの……」


 オーレリアはぎゅっと目を閉じると、胸元を押さえた。

 悲鳴のような深呼吸を繰り返すうちに、彼女の影のざわめきは徐々に落ち着いていく。


「……わたしが、痛いのは平気」


 やがてオーレリアは目を開けると、やつれた顔でキーラを見た。


「どれだけ傷ついても、ひどい目に合っても大丈夫……だって、わたしだもの……わたしなら仕方がないもの……でも……他の誰かが傷つくのは、いや……」


 包帯を巻いた両手を力無く見つめた後、オーレリアはキーラを見た。

 深海のように深いキーラの瞳から、一瞬怯えたように視線を逸らす。しかし何度か深呼吸をすると、オーレリアはまた潤んだ瞳をまっすぐに向けてきた。


「あなたは、わたしなんかよりも強い……」


 キーラは何も言わず、黙ってオーレリアの瞳を見つめる。

 オーレリアは今にも泣き出しそうな顔で震えながら、喘ぐように言葉を続けた。


「それでも……あなたが傷つくところを考えるだけで、わたしは泣きそうになるの……」


 キーラは、ゆっくりとまばたきをした。

 そしておもむろに立ち上がると、オーレリアへと手を伸ばす。

 オーレリアはびくりと震えた。しかし後ずさることはなく、ぎゅっと目を閉じる。

 その青白い頬にかかる髪を、キーラはそっと指先で払いのけた。


「……私ね、エーゲ海のほうに別荘を持っているんだ」


 そうして囁かれた言葉は、あまりにも唐突なものだった。

 オーレリアが硬直した。そんな彼女の柔らかな頬に、キーラはそっと手の甲を滑らせる。


「小さいけどテラスと、プールがあってさ。そこから海が見えるんだ」

「……そ、そうなの……す、すごいわね」


 目を閉じたままオーレリアは、こくこくとうなずく。

 キーラは群青の瞳を細めると、おもむろにオーレリアの耳元に唇を寄せた。


「あげる」

「え、あ、ありがと……」


 オーレリアの頬をもう一撫でして、キーラは元のようにテーブルにいた。

 数秒が過ぎた。オーレリアは目を開け、再び絵を描くキーラを青ざめた顔で見つめた。


「…………あげる?」

「うん。多分、気にいると思うよ」

「ま、待って待って待って」


 ぶんぶんと首を横に振るオーレリアに対し、キーラは無表情で首を傾げた。


「……山の方が好き?」

「そうじゃないわ! う、受け取れないわ……!」

「……なんで?」

「こ、こっちが聞きたいわ……! な、なんで急に別荘なんか……!」

「人間扱いされたのは生まれて初めてでね」


 キーラは絵筆を置くと、厨房から密かにくすねた52ヘルツに手を伸ばした。


「君みたいに私の事を心配する人間なんて、いままで一人もいなかった。なんだかすごく新鮮だったよ。そんな新鮮な刺激をくれた君に、なにかお礼をしたかったんだが」

「な、なるほど……で、でも、別荘は行き過ぎだわ……」

「そうか。じゃあ、誰か殺して欲しい人はいる?」

「い、いない。いないわ……気持ちだけで十分よ」

「ふーん……難しいな……」


 首を傾げつつ、キーラは混沌としたスケッチブックを閉じた。

 そうして52ヘルツの瓶を取ろうとしたところで、電子音が響いた。

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