10.フロントにて
一階は、静まりかえっていた。
電灯はほとんどが消え、わずかに残っているものも光量が落ちているせいで薄暗い。
二階と同じく、床は鉄臭い液体によってひたひたと濡れている。
消防斧を手にして、キーラは正面階段を降りた。
あたりを見回しながら、聴覚に神経を集中させる。【蛍光色】は――見えない。
「――オーレリア。降りておいで」
「…………だ、大丈夫なの?」
「ああ。この階には、もう生き物はいないみたいだ」
「で、で、でも……し、死体が、こんなに……」
踊り場にしゃがみ込むオーレリアの言うとおり、一階には屍山血河が築かれていた。
男、女、子供、老人――いずれも息絶え、朽ち果て、変異しつつある。
「大丈夫だよ。どれも虚体だ。ヴィジターの【色】はなにも……」
そこでふと、キーラは近くの遺体に目を引かれた。
恐らくはドアマンだろう。黒い制服を着た、恰幅のいい男だ。見開かれたままの眼から触手が出ていることを除けば、概ね原形を保っている。
そして、頭や胸には無数の小さな穴が開いている。キーラは目を細め、遺体を眺めた。
「ね、ねえ……降りても、本当に大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だよ。まずはフロントを見てみよう」
キーラは、震えながら降りてきたオーレリアを迎えた。落ち着かせるために彼女の肩に触れつつ、さりげなく首筋を確認する。
青白い首筋には、血の一滴も残っていなかった。
しかし触れてみると、薄皮がごくわずかに裂かれている感触がある。
キーラはわずかに首を傾げつつ、オーレリアを促してフロントへと向かった。
フロントにスタッフの影はなく、代わりにナマコに似た肉の塊がいくつか転がっていた。
「元スタッフかな」
キーラは呟きつつ、今にも吐きそうな顔をしているオーレリアの肩をそっと撫でてやった。
カウンターの上には書類が散らばり、パソコンは破損している。
そしてそこにもまた、あの穴が無数に開いていた。
「…………なるほど」
キーラは、そっとカウンターに穿たれた穴に触れる。穴の周囲は、焼け焦げていた。
一方のオーレリアはどうにか吐き気を堪えきり、書類をめくっていた。
「……こ、こ、これ……使える……?」
「客向けのパンフレットか。いくらか簡略化されてるけど、非常用階段も載ってるね」
地上十階。地下一階――三階から八階までが客室フロアとなる。
最上階には音楽ホールがあり、二階は手頃な価格のレストランやカフェが集まる。九階はレストランやバーなど、高級な施設が集まるフロアとなっていた。
地下一階にはエステサロンと温水プールがあり、屋上にはささやかな庭園があるようだ。
「……悪くない。よく見つけたね、オーレリア」
パンフレットの内容を暗記すると、キーラはオーレリアの頭を撫でた。
オーレリアは相も変わらず泣きそうな顔をしていたが、何度も小さくうなずいた。
「さてと――とりあえず玄関を見てみようか」
キーラはフロントから出ると、大きな観葉植物が無数に並ぶロビーへと向かう。
自動ドアは堅く閉ざされ、キーラ達が近づいても反応しなかった。透明なガラスの向こうには、シアンとマゼンタの狂った色をした空が見える。
キーラは冷たいガラスに触れたあとで、思い切り蹴りを叩き込んだ。
「……なるほど、これは面白い」
ガラスの表面を見つめ、キーラは一瞬だけ笑った。
刻まれた亀裂は音を立てて色褪せ、そして溶けるように消え去った。
「最新技術のたまもの……ってわけでもなさそうだ。これじゃ、外には出られないね」
「こ、これ……なんだかおかしいわ……」
オーレリアは眼を見開き、自動ドアへと近づく。
もはや傷一つないガラスに、オーレリアは五指を広げた状態で両掌をつける。
「Mo……n……on……」
珊瑚色の唇から囁きが零れる。すると、オーレリアの掌に沿って【透明】な震動が広がるのが見えた。それはガラスを細かく揺るがし、そこに新たな亀裂を刻み込む。
亀裂はドア全体に及び――またしても、急速に消えていった。
「や、やっぱりおかしい……」
「いま、何をしたの?」
「しょ、衝撃の魔法……わたしが使えるくらい簡単なの。でも、普通のガラスなら粉微塵にするくらいの力はある……それにガラスに触った時、マナの熱を少しだけ感じた……」
「マナ……確か、魔法の原動力になる精神の力だったね」
「え、ええ……わたしの、感覚が間違ってなかったら……」
オーレリアは困惑の顔で、傷一つない自動ドアを見上げた。
「誰かが、この自動ドアに魔法を――」
【茶褐色】――叩き込むような勢いで視界に割り込んできた【色】に、キーラは目を細めた。
振り返れば、まさに一人の男が階段を駆け下りてくるところだった。
赤い髪にバンダナを巻き、派手に逆立てている。派手なスカジャンにはメタリックカラーの糸で、ドラゴンの像が刺繍されていた。
「お、ああ……人、かぁ……?」
階段を降りきったバンダナ男はキーラ達を見つめ、大きく目を見開いた。
薄暗いせいで、細部が判然としない。しかし、顔面に鍵穴に似た奇妙なマークを大きくペイントしているのはわかった。そして、手には長細いものを持っている。
「おお! おお! 生きてるな! 生きてるな!」
バンダナ男は、心底嬉しそうに笑った。
そうして、そのまま手に持っていた長細いものを――アサルトライフルをキーラ達に向けた。
「――じゃ、死ね!」
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