9.バード・ストリーム

「誰だい?」


 ゆらゆらと不安定に体を揺らす『童子』に、キーラは無表情でたずねた。

『童子』はぐらりと頭を仰向かせ、吐息を漏らした。


「Ha……」


 一瞬だけ、【色】が閃く。それに、キーラはわずかに目を見張る。

【色】だけを見れば、【黒】だった。

 けれども、純然たる【黒】ではない。一瞬だけペストマスクの周囲に滲んだそれは大量の絵の具をぶちまけ、混ぜ合わせたような色に近かった。


「……何者だ?」


 問いには答えず、『童子』はゆっくりと右手を伸ばした。


「Ah……」


 キーラとオーレリアを指差し、『童子』はため息のような声を漏らした。

 瞬間――自分達の周囲に無数の【黒】がざわめいた。

 キーラが反応する間もなく、壁面に無数の黒い円が浮かんだ。ずるずると音を立てて、泥のように柔らかくなった壁面から何匹ものカラスが現われた。

 それは放たれた勢いのまま、オーレリアへと飛ぶ。


「えっ――?」


 オーレリアが眼を見開く。その首筋を、カラスの嘴はざっくりと切り裂いた。

 白い皮膚が裂けた。天井まで赤い血が噴き上がった。


「は……?」


 キーラはそれを、確かに見た。

 声も出せなかった。深海の色をした瞳を見開き、キーラはオーレリアへと手を伸ばす。

 しかし、そこに新たに壁から現われたカラスが襲いかかった。

 襲いかかるカラスの首をとっさに鷲掴み、握り潰す。

 そしてそれを飛び交うカラスめがけて投げつけた瞬間、泣き声が聞こえた。


「こんなことばっかり……!」

「――オーレリア?」


 さすがのキーラも驚愕の表情で振り返った。

 見れば、オーレリアは頭を抱えてしゃがみ込んでいた。顔色は相変わらず悪いが、先ほど切られたはずの首筋からは一滴も血が流れていない。


「これは悪い夢だわ……! きっとそうよ……!」

「……私も、夢を見ていたのかな?」


 元気に泣きじゃくるオーレリアを見つめ、キーラは一瞬状況も忘れて困惑する。

 その時――【色】の波紋が見えた。


「Ah……」


 背後で、吐息混じりのペストマスクの声が響く。

 キーラはとっさにオーレリアを抱え上げ、階段めがけて駆ける。

 走るそばから、壁や床におびただしい数の円が浮かび上がるのが見えた。それを突き破るようにして大量のカラスが現われ、盛んに鳴き立てながらキーラ達を追う。


「……あれ、なんだろうね」

「知らない知らない知らない……ッ!」


 キーラの淡泊な問いかけに、オーレリアは泣きながら答えた。


「今までにない敵だ。あれもヴィジターかな」

「なんだっているわ! なんだって起きるわ! だってこの場所は狂ってるもの!」


 オーレリアは完全にパニックに陥っていた。

 その悲痛な叫び声を掻き消すように、カラスの鳴き声が正面から響いた。

 思わず足を止めるキーラの視界を、鳥の群れが塗り潰した。


「……ちょっとしたパニック映画だな」


 カラス、カラス、カラス――。

 数百にも及ぶ黒い翼が羽ばたき、叫び声が耳をつんざく。

 迫り来る漆黒の奔流を前にして、キーラはとっさに体勢を低くした。泣きじゃくるオーレリアをきつく抱き締め、できるだけ彼女をカラスから庇う。

 爪や嘴が身を裂く痛みを覚悟した。しかし、一向にその瞬間はおとずれない。

 カラスの群れはキーラ達の周囲ぎりぎりを旋回し、攻めあぐねているように見えた。


「これは……?」


 ぼとりと鈍い音が聞こえた。キーラは、視線を落とす。

 床には何羽かのカラスが落下し、痙攣を繰り返していた。嘴を激しく開閉し、ぼこぼこと泡を歯くその様を見た瞬間、キーラははっとして周囲を見回した。


「そうか、毒か……!」


 カツオノエボシ――一種の群体生物であり、厳密にはクラゲではない。

 透明なボトルにも似た浮き袋と三角帆を持ち、波や風によって海を漂う。毒性は強く、『浮遊する脅威フローティング・テラー』とも呼ばれる。

 特徴は、その触手。極めて長大で、長いものでは五〇メートルにも及ぶ。

 物理的な刺激によって毒を発射するそれが、今はキーラ達の周囲に張り巡らされている。

 どうやらカラス達は、その毒性を恐れて近づけずにいるようだった。


「オーレリア。君の友達、結構すごいぞ」


 見ているそばから、触手に触れたカラスが次々に床へと落下していく。


「こ、この子達は、今の私が呼べる中だと強い方だから……」

「このままの状態で動けるかな?」

「や、やめた方が良いと思うわ……今、毒を向ける対象を区別できる自信がないの……下手をしたら、あなたまで触手でやられてしまうかも……」

「なるほど。わかった。――それじゃあ、触手に隙間を空けてもらえないかな?」


 言いながら、キーラはメッセンジャーバッグを開ける。

 ごそごそとバッグの中を漁る彼女を、オーレリアはきょとんとした顔で見つめた。


「で、でも、そんなことしたら、カラスが……」

「このままじゃジリ貧だよ。できれば、階段のところにまで行きたい。――私に少し考えがある。合図をしたら、触手を解いてほしい。あと、できるだけ私の後ろにいて」

「わ、わかったわ……でも一体、何をするつもりなの……?」


 キーラはバッグから二つの品を取り出した。

 ライター。そして、表面にドラゴンの刻印の刻まれたチタンのスキットル。

 スキットルの蓋を開けると、刺激臭が鼻腔を突いた。


「……何、ちょっとした宴会芸だ」


 目を細めつつ、キーラはスキットルの中身を口に含んだ。

 焦れたカラスの叫びが耳を衝く。黒い渦はそれそのものが生物の如くうねり、オマモリカツオノエボシの触手をどうにか掻い潜ろうと何度となく迫った。

 と、青白く光る触手に隙間が開いた。カラスの群れは狂喜の声を上げ、襲いかかる。

 瞬間――炎がその身を焼いた。

 炸裂する光と熱に、甲高い悲鳴が上がる。

 この異常な状態で現われた存在であっても、炎に対して本能的な恐れを抱いているのは変わらないらしい。金切り声とともに、カラスの群れが一気に四散する。


「な、なに……? 魔法なの……?」


 目を白黒させるオーレリアの背中を軽く叩き、キーラは駆け出した。

 走りながら、さらにスキットルに口を付ける。

 スキットルの中にはスピリタスが詰まっていた。アルコール度数九十六――扱いによっては常温でも発火するそれを、ライターに点した火へと吹きかける。

 途端、小さな火は爆発的に膨れあがる。

 吐き出される炎に、前から迫っていたカラスの群れが悲鳴とともに散った。

 階段まではまだ少し距離がある。

 しかし、スキットルの中身にも限界がある。火種は先ほど厨房からかすめ取ったジンがあるものの、こちらはスピリタスに比べれば度数が低い。

 容量を計算しつつ、キーラは再度スキットルに口を付けようとする。

 その時、数羽のカラスがけたたましい叫び声とともに急降下してきた。

 カラスは知能が高い。いずれ燃料供給の隙を突かれることは予測していた。多少の痛みを覚悟しつつ、キーラはそれでも防御はせずスピリタスを口に含む。

 瞬間、透明な触手がひるがえった。

 目の前で揺れるそれに、襲いかかってきたカラスは恐怖の声をあげて急上昇する。

 しかし二羽は回避が遅れ、半透明な触手に絡め取られた。


「オ、オマモリアンドンクラゲ……ッ!」


 眼を見開くキーラについて走りつつ、オーレリアが喘ぐように言った。


「毒性はカツオノエボシより低め……で、でも、泳ぐのがとっても上手……!」


 オーレリアの言葉の通り、キーラ達の周囲を旋回する二体のクラゲは先ほどのオマモリカツオノエボシよりも遥かに自在に動き回っていた。

 毒性は低いものの、カラス達にはあのオマモリカツオノエボシの恐怖が残っている。

 クラゲに対して再び距離を取るカラスを見つめ、キーラはうなずいた。

 本当ならオーレリアを褒めてやりたい。しかしスピリタスを口に含み、さらにライターに点火しているこの状態では、下手をすれば体内に火が流れ込んでくる。

 なので、キーラは代わりに思い切り火を吹いた。

 甲高い悲鳴が上がり、黒い翼の群れが一気に四方へと散る。

 目の前が開けた。その先にある階段へと足を踏み込み、キーラは振り返った。


「どうにか振り切りたい……が……?」


 奇妙な光景だった。

 数十羽にも及ぶカラス達が耳障りな声で喚きながら、何度も旋回している。その翼は階段と廊下との境界を掠めることがあっても、越えてくることはない。


「……こいつら、もしかして二階から出られないのか?」

「ね、ねえ、今のうちに早く逃げましょう……?」


 大きく肩を上下させながら、オーレリアが泣きそうな顔で袖を引いてくる。

 どうやら運動は不得手らしく、呼吸がひどく荒い。


「お、襲ってこないうちに……」

「……そうだね」


 カラスの群れを見つめたまま、キーラはすっかり軽くなったスキットルの蓋を閉めた。

 カラス達は相も変わらず旋回するだけで、階段まで襲ってくる気配がない。

 キーラは目を細め、あの童子の姿を探そうとした。

 しかし、カラスの大群の発する【色】のせいで二階のほとんどが塗り潰されている。


「……一階に行こう。こいつらのことは後回しだ」


 キーラはカラスに背中を向ける。しかし、オーレリアは立ち尽くしていた。


「…………先生」


 アイスブルーの瞳は、ロンドン・モーニングのある方向に向けられていた。

 やがてオーレリアはうつむくと、ゆっくりと首を振った。


「……行きましょう」

「うん、行こう」


 青白く光る二体のクラゲを伴って、二人はゆっくりと階段を降りていった。

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