8.童子

 食事を終えたキーラは、そのまま一階へと降りるつもりだった。

 しかし階段に向かいかけたところで、オーレリアがそっと服の裾を摘まんできた。


「何? どうしたの?」

「…………あの、こんな、状況だけど……」


 落ち着きなく視線を彷徨わせ、オーレリアは消え入るような声で言った。

 その視線が何度かある方向に向けられるのを見て、キーラはすっと群青の瞳を細めた。


「……あまり勧めないよ」

「でも……あの時は、何が何だったのか、わからなかったから……」


 しきりに手首をさすりながら、オーレリアはうつむく。

 細い手首を覆う包帯を見つめた後、キーラは天井に視線を向けた。そして無表情のまま小さくため息を吐くと、彼女はぱんと一つ手を打った。


「……わかった。私もいろいろ確認したいことがある。行こうか」

「ありがとう……」


 安堵の表情でオーレリアはうなずき、キーラに続いて歩き始めた。


『カフェ ロンドン・モーニング』――昨晩の戦いが嘘のように、店は静寂に包まれている。

 扉が見えた途端、オーレリアは駆け出し、カフェへと飛び込んでいった。

 キーラも辺りに注意を払いつつ、荒れた店内へと足を踏み入れた。


「せんせい……」


 かすれた声――見れば、オーレリアが床に膝をついていた。

 その前に、ナオミの遺体が横たわっていた。

 首はざっくりと切り裂かれ、頸椎がほとんど露出していた。瞳孔は完全に拡張し、黒々としたそこから奈落が覗いているようにさえ思えた。

 アイスブルーの瞳を見開いたまま、オーレリアはナオミの顔に右手を伸ばした。

 青白い手が、それよりもさらに血の気のない頬をそっとなぞる。

 途端、彼女の影がざわりと揺れた。

 暗い海の如く揺れる影の表面から、ゆっくりと新たなクラゲ達が空気中へと現われてくる。


「……ここ、先生のお気に入りなの」


 囁くオーレリアの手がナオミの頬を滑るのを、キーラは黙って見つめた。


「ここのコーヒーが好きだったみたい……朝と夕方に……ここで、二人で過ごしたわ。……昨日も……そうして……なのに……なのに……なのに……」

「なのに」と抑揚のない声で、オーレリアは繰り返す。


 その右手が、床へと降りる。それが散らばるガラス片へと伸びるのを見て、キーラは動いた。


「オーレリア」


 手首を掴んだ瞬間、オーレリアは眼を見開いた。

 右手握りしめたガラス片と包帯の解けかけた左手首とを、彼女は呆然と見つめた。


「わ、わたし……」


 オーレリアは不規則な呼吸を繰り返し、ゆるゆると首を振る。

 キーラはひとまず彼女の右手を取ると、その指先を一本ずつガラス片から剥がしていった。


「やめなよ、こんな汚いの」


 そうして取り上げたガラス片を、キーラは店の奥へと放り投げる。

 そして代わりに万能ナイフを取り出すと、その柄をオーレリアへと差し出した。


「ほら。どうしてもやりたいなら、こっちを使った方がいいよ」

「…………そういう反応をされたのは初めてだわ」

「なにか対応を間違えたのなら悪いね」


 深くため息を吐くオーレリアに、キーラは無表情で肩をすくめた。


「でも、切らないと辛いなら切った方がいい。死なない程度なら別に構わない」

「……普通は止めたり、嫌がったりすると思うわ」

「……私に『普通』を期待されても困るよ」


 キーラはわずかに唇の端を下げ、珍しく困ったような表情を一瞬だけ見せた。


「あいにく、私は人の気持ちなんて全然わからないんだ。【色】が視えない、殺し合いに昂揚しない、ちょっと殴っただけで死ぬ……そういう人間の感性は理解できない」

「…………わたしに、モデルになって欲しいんでしょう?」


 オーレリアは首を傾げ、どこか探るような眼でキーラを見た。


「モデルが傷物になってもいいの?」

「傷があってもなくても、私が描きたいものは君であることに変わりない」


 キーラはいつもどおりの無表情で答えた。


「傷がない君も美しく描けるし、傷がある君も美しく描けるよ」

「…………へ、へんなひと」


 青白い頬を少しだけ赤くして、オーレリアは落ち着きなくスカートの裾を握りしめた。

 どうやら、少しは落ち着いたらしい。クラゲ達も、徐々に影に戻っていく。


「……まぁ、殺人鬼だからね」


 キーラは肩をすくめると、万能ナイフをライダースジャケットのポケットに納めた。


「一応君に確認するけど、少しナオミの遺体を改めてもいいかな」

「あ、あの、男の人にやったような事をしないのなら……」

「解剖はしないよ。この人もメイジなんだろう? 部屋にある護符みたいなものを、他に持っていないかなと思ってさ。……ナオミの鞄はどこにある?」

「え、えっと……」


 いそいそと辺りを探し始めるオーレリアをよそに、キーラはナオミの遺体を確かめた。


「……硬直は少し起きてるけど、錠剤男に比べると綺麗だね。変異の進行に差があるのは時間の影響か、個体の影響か……それとも体内で変異が起きているのか――」

「……せ、先生の鞄、あったわ」


 か細い声に顔を上げると、オーレリアが黒革の小さな鞄を大事そうに抱えている。

 キーラはひとまず鞄を受け取ると、中身を確認した。


「水晶のかけら、鏡、マルセイユ版とトート版のタロットカード……あと得体の知れない小瓶と護符がいくつか。なにか使えそうなものはある?」

「わ、わたしは、魔法に自信がないから……たぶん、意味がないと思うわ……」

「そうか。まぁいいや。――あとは口紅、財布、チョコレート……それと手帳」


 肩を落とすオーレリアをよそに、キーラは黒革の手帳を開いた。

 ざっと確認してみたが、役立ちそうな記述はない。なんの変哲もない予定と、詩や小説の抽象的な素案を書き留めてあるばかりだ。


「もしかすると、これらも何か魔術的な暗号だったりするのか? ――ん?」


 あるページの走り書きに、キーラは目を留める。流麗な漢字とひらがなで記されていたものの、どうにか解読することができた。

 ――よくない兆しだ。危険が迫っている。

 ――誰にも触れさせはしない。私のレノーアは永遠だ。


「……オーレリア。レノーアって名前に聞き覚えはある?」


 手帳を閉じながらたずねると、オーレリアはきょとんとした顔で首を振った。


「し、知らない……誰のこと?」

「私にもさっぱりだ。どうやら、ナオミにとって大事な人みたいだ。――まぁ、いい。とりあえず、これ以上はめぼしいものはないみたいだね」

「じゃ、じゃあ、これからどうするの……?」


 立ち上がるキーラに、オーレリアはおずおずと問いかけた。


「あと一つ確認してから、この後は一階に行く。――と、その前に」


 キーラはあたりを見回すと、近くのテーブルにテーブルクロスが積まれているのを見つけた。

 そのうちの一枚を取り、ナオミの遺体の上で思い切り広げた。


「あ……」「……私からすると、『これ』はもはやただの肉と骨の塊だ」


 眼を見開くオーレリアをよそに、キーラはさらにもう一枚のテーブルクロスを遺体に広げた。


「けれど多分、君にとってはこうした方がいいだろう」

「……あ、ありがとう」


 オーレリアは目元を押さえ、何度もうなずいた。

 しかしキーラは無機質な群青の瞳で、盛り上がったテーブルクロスを見下ろした。


「…………起き上がってきたら、どうするかな」


 オーレリアに聞こえないよう囁きつつ、キーラは厨房に向かった。

 木製のスイングドアを開いた途端、キーラは「ああ……」と声を漏らした。


「……どうしたの?」

「いや、何……」


 キーラは照明のスイッチを探った。しかし、粘膜質の何かばかりが指先に触れる。

 その間も、生ぬるい闇の中でなにかが蠢く気配がした。


「カ……カ……カ……カ……」


 空気の零れるような音ともに、粘ついた【赤褐色】と【黄褐色】が視えた。

 キーラは照明のスイッチを探すことを諦め、メッセンジャーバッグから懐中電灯を取った。

 それを逆手に持ち、目の高さで点灯した。

 白い光が厨房を照らす。途端、オーレリアが口元を押さえてうずくまった。


「――人、多いなと思ってさ」


 先ほど料理したグランド・レイクに比べれば、小さな厨房だ。

 二つの調理台、業務用冷蔵庫、酒瓶を収納した棚、小さな配膳用ワゴン――。

 そして、至る所に人間が広がっていた。

 でたらめに手足が伸びている。白目を剥いた右半身が沈んでいる。木の床には赤や青の泡の如く臓腑が膨らみ、白い壁には赤い血肉がひび割れの如く広がる。

 拍動し、蠕動し、震え、蠢き―肉体だけは、かろうじて生きているようだった。

「カ、カ、カ……」――近くの壁に埋もれた顎が、声を零す。


 明かりは小さく、心許ない。

 そこで、キーラは【色】に集中することにした。

 滴る【暗赤】と【透明】――カ、カ、カ――いびつな【赤褐色】と【黄ばんだ白】―【震動する鈍色】と【震動する黒】は業務用冷蔵庫――き、ぃ、ぃ、ぃ――【白】の亀裂――。


 さりげなく二本の瓶をかすめ取りつつ、キーラは慎重に進んだ。

 奥のスペースへと足を進めると、まず小さな配膳用エレベーターが目を引いた。

 扉の大きさから見るに、定員は四名といったところ。

 八階から地下一階までのボタンがオレンジ色に点灯している。

 しかし、『B1』にあたるボタンには『故障中』という素っ気ない貼紙がされていた。


「……なるほど。これで冷めたルームサービスを届けていたんだね」


 キーラは呟きつつ、エレベーターから近くの作業用デスクへと視線を移す。そこにはノートパソコンが開いたまま、スリープモードの状態で放置されていた。

 キーラはすぐさまデスクへと近づき、マウスに触れた。


「さすがに外部には繋げられないか」

「ね、ねえ……さっきから、なにを探しているの……?」


 スイングドアに縋り付いたオーレリアが、か細い声でたずねてくる。


「ん……建物の図面とか見つからないかなと思ってさ」


 青白く光る画面から目を離さずに、キーラは淡々と答えた。


「スタッフ用の地図かなにかがあれば、もっと移動しやすくなるんだけど……駄目だな。ロックがかかってる。稼動してるだけマシって感じだね」

「ね、ねぇ……じゃあ、もう、離れない……?」


 オーレリアの細い声に、キーラは視線を厨房の入口に向けた。


「な、なにも、ないなら……もうこんな所、出ましょう……?」


 スイングドアにしがみつき、オーレリアは真っ青な顔で震えていた。目をぎゅっと瞑った彼女の足元で、影は荒れ狂う海面のようにざわめいている。

 周囲には、触手の生えたボトルのような新しいクラゲが浮いていた。

 カツオノエボシ――猛毒だ。どうやら相当なストレスをかけてしまったらしい。


「……ああ、すまなかったね。すぐに出るよ」


 腸やら腕やらを適当に払いのけつつ厨房を進み、手近にあったアルコールで手を清める。

 そうして、キーラは漂うカツオノエボシをじっと見つめた。


「……これ、消せる?」

「この子達はしばらく消えないの……心配性だから……」


 オーレリアは目元を拭うと、自分の周囲に浮かぶカツオノエボシを見上げた。


「でも、この子達はオマモリカツオノエボシ……生物ではなくて精霊。そしてわたしの使い魔だから、わたしがお願いしない限りは毒を出すことは――きゃっ」

「そうか。それはよかった」


 キーラはカツオノエボシを慎重にどかしつつ、オーレリアをひょいと抱き上げた。

 カツオノエボシは宙を滑り、二人の周囲を囲うようにして静止した。クラゲに触れた片手を何度か握りしめ、キーラは痛みも痺れもないことを確認する。


「なるほど。確かに大丈夫みたいだ」

「あ、あ、あの……」

「無理をさせて悪かったね。君が落ち着くまで、このまま行こうか」

「こ、このまま……?」


 キーラはしっかりとオーレリアを抱え直すと、流し目で彼女の顔を見た。


「いや?」

「い、いやじゃ、ないけど、でも……」

「私は君を抱えるの、結構好きだよ。やわらかいし、あたたかいし、いいにおいがする」

「そ、そんな……そんなことないわ……」


 真っ赤な頬に両手を当て、オーレリアはふるふると首を振る。

 キーラは構わず歩き出した。カツオノエボシ達もその動きに従い、音も無くついてくる。

 歩きながらスマートフォンを確認し、キーラは小さく感嘆の声を漏らした。


「……このあたりは少しだけ電波が強いね」

「ど、どうする……? レティシアさん達に、連絡する……?」

「いや、今はいい。特に伝えることもないからね」


 キーラはスマートフォンをポケットに納め、階段へと向かった。

 すぐに一階に降りるつもりだった。しかし――キーラは、廊下の途中で動きを止めた。

【青黒い】さざ波が、背後から断続的に走ってくる。覚えのある【色】だった。


「これ、鳥の羽音……?」


 オーレリアの耳にも、それは感じ取れたらしい。

 首を傾げるオーレリアを床に降ろすと、キーラは肩にかけた袋に手を掛けた。

 ダクトテープとテーブルクロスで作った急ごしらえのそれには、消防斧が仕舞われている。


「さて――」


 柄に触れつつ、キーラはじっと【色】の見える方向を――音の聞こえる方向を見る。

 ロンドン・モーニングの扉から、何者かが現われた。

 黒い長袖のコートを着て、深々とフードを被っている。ぼろぼろのマフラーを巻き、手首や足首には薄汚れた包帯を巻き付け、偏執的なまでに肌を隠していた。

 極めつけは、その顔面。なんとも奇妙な仮面に隠されている。

 切れ長の目に、薄く微笑を湛えた唇――その仮面に、キーラは見覚えがあった。


「『童子』の面か……能で使われるものだね」


 それによって相手の顔は完全に隠され、性別はおろか人かヴィジターかさえも判然としない。

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