7.殺人鬼とモーニングを
エッグベネディクトはシンプルな卵料理だ。
まずは焼いたイングリッシュマフィンを半分に切る。
そしてイングリッシュマフィンの断面に、こんがりと焼いたベーコンを載せる。さらに半熟のポーチドエッグを重ね、卵黄から作ったオランデーズソースをかける。
他のパンを使ったり、ベーコンをハムに変えたり、野菜を加えたりしてもいい。
キーラが作ったのは、サーモンを使ったことを除けばおおむねレシピ通りの一品だった。
「――私はね、ベビーリーフというものが結構好きなんだ」
二階――ガラス張りの壁の近くにある休憩スペースで、キーラは語った。
丸いテーブルの上にはエッグベネディクトの他に、厨房で見つけたインスタントのコンソメスープと、緑の野菜を適当に合わせただけのサラダとが並ぶ。
「これがあるだけで食卓の満足感が違う。切っただけのレタスをただ皿に盛るだけよりもずっといい。――君もそう思わない?」
オーレリアはキーラの向かいで突っ伏していた。
その頭の周囲には、何匹かのクラゲがふよふよと漂っている。
「…………そ、そうよ、そうよ、オーレリア。これは仕方がないことなの。多分わたしはまた知らない間になにか失敗をしてしまったの……その罰よ……先生が死んだのも、血まみれの厨房で料理を作ったのも、全部、全部、全部、わ、わたしがきっと、ひどい失敗を……」
「現実逃避も自己嫌悪も結構だけど」
無表情で言いながら、キーラは律儀にナプキンを襟元に結んだ。
「ほどほどにした方がいいよ。いつか知らない間に、納得のいかない死を迎えることになるかもしれない。――あと、調理台はちゃんとアルコールで消毒したから大丈夫」
「……ええ、大丈夫……もうわたし、たいていの事は受け入れられるわ……」
深くため息を吐くと、オーレリアは体を起こした。
視線に入ったのは、大きなワイングラスに白ワインを注ぐキーラの姿だった。
「お、お酒を、飲むの……?」
「さっき、この店のワイナリーを見つけたんだ。これはそこで一番高い奴だよ。どんな味なのか気になったから、少し味見しようと思ってね」
「こ、こ、この状況で飲むの……?」
「こんな異常事態だ。じたばたしても事が悪化するだけ。なら、少しでも精神にゆとりを持った方がいい。どんな時でも愉しみを持つことが大切だよ」
「……こんな状況で、愉しむことなんてできないわ……」
「そうか。まぁ、そのうち適応するだろう」
「適応って……そんなこと、できるわけが……」
「とりあえず冷める前に食事としよう。冷めた食事は無粋の極みだ」
キーラは、さっそく自分のエッグベネディクトを切り分けた。
とろりとした卵と、少し塩気のあるサーモン、濃厚なオランデーズソース、香ばしいイングリッシュマフィンの風味――それらをじっくりと味わい、キーラはうなずく。
「……うん。いいね。恐らくは、今まで異界で作られた中で一番の料理だろう」
オーレリアはしばらく、動こうとしなかった。
しかしキーラを見ているうちに、空腹に耐えられなくなったらしい。クラゲ達が漂う中、彼女はゆっくりとナイフとフォークを手にした。
小さく切ったエッグベネディクトを、躊躇いながら口にする。
途端オーレリアは眼を見開き、動きを止めた。
「………………美味しい」
「そう。それは良かった」
「……美味しい。すごく、すごく美味しい……」
オーレリアは何度もうなずきながら、エッグベネディクトを口に運ぶ。そうして彼女の前に並ぶ皿は、見る見るうちに平らげられていった。
「……こんなに」
空になった皿を見回して、オーレリアはぽつりと呟いた。
「美味しいもの……誰かに作ってもらったの……初めてかもしれない」
「……ナオミは料理をしなかったの?」
白ワインをさらにワイングラスに注ぎながら、キーラはたずねる。
オーレリアは首を振った。頭に載っていたクラゲがぺちゃっとテーブルに落ちた。
「……わたし、人の多いところが苦手だから……いつもルームサービスで、部屋までごはんを持ってきてもらっていたの……そうすると、少し冷めてるのが多くて」
「クレームものだね。……じゃあ、ナオミと出会う前はどうだったの?」
途端、オーレリアはうつむいた。
「……いつも冷めてた。わたしはそれでいいの……出るだけマシだと思わないと……」
うつむいたまま、抑揚のない声でオーレリアは言う。
足元で、ぐらりと影が揺れた。波打つ影から、無数のクラゲがぽつぽつと浮遊してくる。
周囲を飛んでいたクラゲの数が、ゆっくりと増えていく。
「……家族には、必要なのよ。どれだけ笑ってもいい人間が」
「へぇ。私には、理解できない世界だね」
キーラはワインをちびちびと飲みながら、周囲を漂うクラゲを見つめた。
オーレリアは頭を抱え、ダークブラウンの髪をぐしゃりと掻く。
「わたしはできない子だから……どれだけ雑に扱ってもいい。どれだけ笑ってもいい。どれだけ馬鹿にしてもいい……料理が冷めてても、新しい服がもらえなくても、仕方がないの……だってわたし、できないから……できる子を、優先するべきだから……」
「君、できるじゃないか」
キーラの言葉に、オーレリアは動きを止める。
赤い日に煌めくワインを見つめつつ、キーラは淡々と言葉を続けた。
「エンチャントだっけ? あれのおかげで、私は新しい凶器を使えるようになった」
「で、でもあんなの、メイジならできて当然で……」
「それに君はオランデーズソースだって冷やさず作れた。あの状況で冷やさなかったのは賞賛に値する。むしろどうやったの?」
「それは……クラゲ達に手伝ってもらいながら……だから……」
「あと香りのセンスがいい。朝ちらっと見たけど、レースも刺繍もなかなかの出来だった」
「あ、ありがと……で、でも……でも……!」
オーレリアは一瞬頬を赤らめたものの、すぐに頭を抱え込んでしまった。
壊れた人形のように激しく首を振り、彼女は声を引き絞る。
「そ、そんなの……そんなのできたって……全部、無駄なことだもの……!」
「無駄でいいじゃないか」
キーラの一言に、オーレリアは動きを止めた。
ゆるゆると顔を上げ、オーレリアは驚愕の顔でキーラを見つめる。その視線を真っ向から受け止めつつ、キーラは無表情でワインをごくりと飲んだ。
「無駄のない世の中なんて窮屈で退屈だ。脂身のない肉みたいなものだよ」
「で……でも……」
「無駄がなければ芸術なんて生まれない。絵、物語、音楽……無駄の極致だよ」
自分の職業を『無駄』と言い切り、キーラは肩をすくめた。
「……でも、そんな無駄なことで命を救われる人間もいるらしい。誰かにとっての無駄は、誰かにとっては有益だ。少なくとも君の無駄に、私は価値を認めた」
オーレリアは言葉もない。
何度もまばたきをして、ただ呆然とキーラを見つめてくる。
アイスブルーの瞳を群青の瞳でまっすぐに捉え、キーラは言葉を続けた。
「私にとって、君は価値がある。まずはそれでいいじゃないか」
「…………そう、なのかしら」
オーレリアは視線を落とすと、テーブルに鎮座するクラゲをぷにぷにとつついた。
足元で、海面の如く影が揺れる。周囲を漂っていた無数のクラゲがそこに徐々に消えていくのをみるに、どうやら多少オーレリアの精神は落ち着いたようだ。
「貴女には……」
「ん、何かな?」
ワイングラスを運ぶ手を止めて、キーラは首を傾げる。
クラゲを掌に載せた状態で、オーレリアはちらっとキーラに視線を向けた。
「……貴女には、家族はいないの?」
「いたとも。殺人鬼とはいえ私も人の子だ。ひとりでに発生したわけじゃないよ」
「貴女の家族は……貴女が殺人鬼だって知ってるの?」
「多分、身を以て知っただろう」
「え……?」
キーラは、ワインを飲み干した。
そして襟元のナプキンを外し、それを綺麗に折りたたんでテーブルに置く。
「とっくの昔に殺してる」
ごく簡潔に言って、キーラは席を立った。
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