第12話 満月

 タラゴンの衛星は二つだった。二つの月はちょうど対角線を描いているらしく、一つの月が沈むとすぐに反対側の地平線に新たな月が現れた。月は地球で見るものより大きく、夜空に圧倒的な存在感を示していた。この大きな月が太陽の光を反射して、夜の大地を明るく照らしている。今日は満月だった。ミゲルはムサシを膝に乗せて、誰も居ない操舵室の椅子に座り窓から月を眺めていた。

 

 太古の昔には月は人類にとって重要な天体だった。満月の日には夜道を明るく照らして照明となったし、月の満ち欠けを観測する事で暦も作られた。月は生物の繁殖にも影響を与えている。珊瑚やウミガメは満月に産卵したし、牡蠣は満月の日に殻を開く。月は人間の女性の月経にも影響を及ぼしてきた。生理周期が一月毎なのは月の影響である。現代の地球人は月面都市の事以外誰も月の事など考えもしないが、昔から時には人を狂気に駆り立て、ある特別な詩情と共にロマンを掻き立てる天体だった。

 

「豊穣と危険へいざなう月……か」

ミゲルはムサシを撫でながら巨大なタラゴンの月の醸し出す芳醇ほうじゅんな雰囲気に浸っていた。全く、月というのはどうしてこうも人の心に訴えかけるのか? 俺は詩人では無いが、古式ゆかしい日本人の様に一句読みたい気分である。

 

「アオーン」

ムサシが月に向かって遠吠えを始めた。何故犬狼が月に向かって遠吠えをするのか、昔から動物学者が調べてきたが、未だに良く分かっていない。月と太陽の引力が何かしらの影響を与えているのかも知れないが、ミゲルにはその理由が良く分かった。犬だってロマンを感じているのだ。動物にロマンなどという高尚な感情がある訳が無いと動物学者なら言うだろうが、生憎ミゲルは学者では無かった。犬達は

「狩りに行こうぜ!」

と言っているのである。人間に飼い慣らされて与えられた餌を食べるのみになった犬にだって、野生の本能は眠っているのだ。月明かりの元、原野で獲物を追っていた記憶がよみがえるのだ。月は野生へ還れと呼び掛けるのである。

 

「お月見ですか?」

ハルカが操舵室へやって来た。

「うん。タラゴンの月は強力だな」

「そうですね。月がこんなに大きいと、何だか怖いような気もしますが」

ハルカは両腕で身体を守る様に抱きしめた。だが一体何から守ると言うのか? 

「二つもあるしな」

「地球に似ていますが、タラゴンの方がよりダイナミックですね。船長には合っているんじゃありません?」

「明日はムサシを連れて狩りにでも行くかな? やはり人工タンパク質より本物の肉の方が良いだろう?」

「大丈夫ですか?」

ハルカは不安に駈られて訊いた。ミゲルの事は信頼しているが、何しろここは未踏のサバンナなのだ。いくら地球に似ているとは言え、何があるか分からない。

「大丈夫さ。お前だって狩りに行きたいよな?」

ミゲルはムサシの顔を覗き込んだ。

「ワン!」

ムサシが元気良く答える。

「二人は仲良しなんですね。何だか妬けますね」

「そうか?」

「ええ。私の入り込めない世界な気がして」

「そんな事は無いさ。俺はハルカの事も忘れてないよ」

「だと良いんですけど。そろそろ寝た方が良いですよ」

「そうだな。そうするか。ムサシ、部屋へ戻るぞ」

ミゲルはムサシに声をかけると操舵室を出た。

 

 船長室へ戻ったミゲルはコンピューターに動物図鑑のデータが入った記憶チップを差した。柴犬を検索する。

「柴犬。日本原産。昔から狩猟犬として使われてきた……俊敏で野性味が強く、人間の指示に従うのでは無く本能で獲物を追い立てる……。凄いな、ムサシ。お前の事だぞ」

ミゲルはムサシの方を振り向いた。ムサシは床に伏せたまま、チラリとミゲルを一瞥いちべつする。

「多分お前も狩りは初めてだろうが、本能に任せるんだ。野生時代を思い出すんだ。今日見掛けたインパラな、あれを狩りに行こうぜ。大丈夫、出来るさ」

 

 ミゲルはベッドに入って目を閉じた。昼間見た平原の光景が脳裏に甦る。と、同時に胸が高鳴った。地球に居た時にだってサバンナ位知っていたが、それは飽くまで映像データ上の事だ。本物のサバンナはミゲルも初めてだった。アリッサでは無いが、地球へ帰れるか分からないというのに、ミゲルは嬉しかった。これから最低でも二年半サバイバル生活を送るのだ、と思うと不思議と力が湧いてくる。もしかしたら、人間というのは心の何処かで何時も自然へ還りたがっているのかも知れない。それは時に文明の発展と反発して葛藤を生む。高度に発達した文明は人間の生命力を奪うのだ。だから地球やスペースコロニーでは精神疾患や犯罪が後を断たないのだ。単純な生きる事そのものの喜びを忘れてしまったから──。

 

 ムサシの寝息が聞こえる。ムサシはここが宇宙だとか、地球だとか、そういった事で疑問を持ったりはしない。常に生命の輝きと共に在るのだ。動物達は何時も野生の無意識と共に生きている。考えようによっては、知性を発達させた人間より賢いのかも知れない。ミゲルはそんな事を考えながら眠りへ落ちていった。

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