4 鳴らない電話

 ムツは生まれてから約半世紀で、ドロップアウトを選んだ。

 脆弱性ぜいじゃくせいから生まれたもうひとりの自分が、箝口令かんこうれいを敷いたのだろう。そのうち、言いたいことも言えないこんな浮世で、最悪の諦観に至ってしまったのだ。

 荼毘だびし、箸渡しの際に判明したことだが、薬漬けだった彼女は骨がスカスカになっていて、燃え残ったほとんどが軽石のようだった。見るも無残な状態は、服用していた薬がどれだけ体に影響を与えていたのかを物語っていた。

 唯一、喉仏の骨だけが綺麗に残っており、左右対称に象られたそれは、仏様が合掌するかのような形をしていることから、

『喉仏の骨が綺麗に残ると、極楽浄土へ行けるんです』

 などと、火夫かふが遺族向けのテンプレートを説明してくれた。

 そうして骨壺の最上に喉仏が置かれると、記憶とともに、彼女の魂も、彼女との遺恨もすべて封印された。

 あとから知ったことだが、本当は喉仏の骨ではなく軸椎じくつい――第二頸椎けいついと呼ばれるものらしい。今となってはどうでも良い事実だが。


 葬儀に振り回されたあとも、やることは山積みである。そのひとつに『遺品整理』という項目がある。正確には、整理という名のゴミ掃除だ。

「――死臭は取れたっぽいな。てか、こんなの業者に任せれば良いだろ」

「大きな荷物は任せるとしても、まずは部屋を片付けないといけないでしょ」

「それを全部頼めって言ってんだよ。でも、これで完全に瑕疵かし物件になったな」

「ボロだし、取り壊されるのが先じゃない?」

 ムツの実姉であるカズと、ムツの甥にあたる私は、訳アリ物件と化した家に上がり、手を動かすのと同じくらい口を動かしていた。休日を返上し、遺品整理をしていたふたりの親子からは、どうしても無意味な文句ばかりが漏れてくる。


 ぶつくさ言っても始まらない。

 私は壁際のカラーボックスに手をつけようとした。本棚の代わりに使っていたのだろう、たわんだ棚板にはコミックスが歯抜けで並んでいる。

 本を捨てるのは少し忍びないと不服を浮かべていると、足元に違和感を覚えた。目を落とすと、カラーボックスの下にも漫画が何冊もばら撒かれており、それを踏んでしまっていたのだ。ムツのズボラな性格がよくわかる惨状である。

 何冊もまとめてゴミ袋へ――それを幾度か繰り返していると、私はある薄汚れた漫画に目を奪われ、作業の手を止めてしまった。その表紙には犬が描かれ、どこかで聞き覚えのある『ハッピー』というタイトルがつけられていたからだ。

「あぁ、そういうこと……」

 私はひとり納得し、過去に誘われるかのように、軍手越しでその漫画をめくっていた。テーマは盲導犬との生活で、ハッピーという名の犬と飼主とのやり取りが描かれていた。必死に遺品整理をするカズの横で、私だけ時間が止まっていた。

 なぜだろう。私が執着していたのは、どこまでもムツが辿った時系列だった。

 最後に読んだページはどこだったのだろう?

 その時、ムツはなにを思っていたのだろう?

 命を絶つ前、ピースケ――いや、ハッピーのことを、心のどこかでは思い出してくれたのだろうか。あの時、実家が引き取らなければ本当に捨てられていたのか、惰性で飼われ続け、死臭まみれの部屋に取り残されていたのか。考えるほど、頭がクラクラした。過言ではなく、そこが現実ではないような感覚だった。

 私が内容に集中できなくなった頃、カズから『アンタも仕事しなさい』というオーラを感じ取り、手にしていた漫画をそっとゴミ袋の中に置いた。


 そう、決してその漫画は形見ではないのだ。

 ムツが残した本当の忘れ形見は、実家で食う・寝る・遊ぶを謳歌し、幸せに向かって滅び続けているのだから。カズ婆さんと一緒に、ゆっくりと。

 近いうち、の老体たちはに行くから、その時はヨシやミチ、当然ムツも交えて仲良くケンカしてくれるだろう。


 ともあれ、人間とはその時の置かれた状況や信念によって、外的要因をどう捉えるかが変わってくる。

 ポジティブかネガティブか。幸せか不幸せか。

 なんだろう。オリバー・バークマンの、【ネガティブ思考こそ最高のスキル】を、速達で彼世あのよに送りつけてやりたい気分になってきた。

 しかしそんな思いを抱くのは、すべて自分のためなのかもしれない。

 あるはずのない死後の世界を、それとなく想像をしてみるだけで、残される側としてはそれとなく心が晴れ、それとなく――


                          【さいごの電話】 了

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さいごの電話 常陸乃ひかる @consan123

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