錯誤-11(覆る基板の裏表について)

「用が済んだなら俺は寝に戻る。遅くまで悪かったな」

招かれて夜の内に退くなんて、久しくやっていなかったことだ。人に言えない自分の暮らしを顧みて、チェイスはなんとも嫌な気持ちになる。

「いいえー、こちらこそ。自分はあまり部屋に人を上げないたちですけど、あなたならいつでも歓迎しますよ」

「ああ…… 」

チェイスは適当に頷きながら部屋を出た。後ろ手に扉を閉じ、三歩くらい歩いたところで振り向いて駆け戻る。

「おい、ペタル、今のどういう意味だ」

「えっ? 戻ってきたんですか? えー、こ、言葉通りですけど…… どうしたんですかー? 話は全部しましたし、もう休もうと思っていたところなんですが…… なにか用が……もうないって言ってましたね? えーと、えー? 本でも読みます? それとも寝ていかれます?」

投げかけられた言葉にぎょっとした。ペタルを見れば、解かれた髪が肩を流れて腰まで届いている。半ばまでゆるく編まれた髪を見て、寝支度をしていたのだと悟ったチェイスはかっと顔が熱くなるのを感じた。

「馬鹿、いらない! 変なこと言うな! 寝ろ! おやすみ!」

「……えー? おやすみなさい?」

部屋を飛び出して、真っ暗な廊下をガツガツと走った。開けっぱなしの戸から、出て行くなら扉を閉めていけと聞こえたが、構っていられなかった。タイミングが悪かったとはいえあらぬ疑いを持ったこと、ペタルに役目を指摘されたこと、妙にうねったサンドベージュの髪が目に焼き付いて、頭の中でぐるぐると回っていた。



窓から夜明けの光が差す。飛び起きたチェイスは着衣を上から下まで確認し、新しい服に着替えると居間へ向かった。先に食卓へ来ていたペタルを見て僅かな気まずさを感じたが、待てども一向に食事当番が起きてこないのでそれどころではなくなった。


「なあ、ペタル、このコンロどうやって火を付けるんだ。燃料は出るが着火しない」

つまみをカチカチと回しながら問えば、ペタルが困ったように眉を下げる。その両手には包丁と剥きかけの芋が握られている。

「え、えーと、マッチを探しますね? 手元の分を切り終わってからで良いですかー?」

「あー…… いや、いい。自前で用意する。作業を進めておいてくれ」

自室に引っ込んだチェイスはその辺の金属くずを金床に上げ、槌でガンガンと叩きまわして火を熾した。燃える雑紙を調理場へ運び、コンロへ投げ込む。ボッと火柱が上がり、五徳を焦がした。黒い灰が床を汚す。

「これはまた随分と……危ないやりかたを選びましたねー?」

「……」

チェイスは火ばさみを手放し、手頃な鍋に水を汲む。するすると芋の皮を剥いていたペタルは、芽をえぐり落としながらチェイスに道を空けた。コンロに鍋が乗れば、あとは沸くまで待つだけだ。床に落ちた燃えさしを靴で踏み消し、チェイスはため息をついた。

「俺は、いったい何をしているんだろうな?こんなことをしなくても、もっと他に良いやり方があったはずだ」

「えーと、あんまり気に病まないでくださいねー? しかたないですよ、調理担当がいないんですから……」


調理の心得があるといったペタルにスープの作成を任せ、チェイスは包丁やゴミを片付ける。匙を用意して待つこと十分。できましたよ、と渡された皿を並べ、チェイスとペタルは匙を握って手を合わせた。湯気の立つスープを一口食べ、チェイスは怪訝な顔をした。

「確かに調理は任せると言った。味付けも好きにしろと言ったがなんなんだこれは。食卓に硬いままの芋を出すなよ。刃物は扱えても火は得意じゃないのか?」

しゃりしゃりとリンゴの様な音を立てて咀嚼されていくのはあろうことかジャガイモだ。いやにねっちりとした食感だが、噛んでも粒状に砕けるばかりで喉を落ちる感覚もざらざらとしている。スープの濃さは丁度良いのが奇妙さを際立てていた。

「まさか! これはこういう料理なんです。指摘のとおり食味の良くないのが特徴なんですが、食べる量が抑制されるので経済的ですし、何より消化が阻害されるので食間の空腹が紛れるんですよー」

チェイスの文句を咎めもせず、合理でしょう、とペタルは続けた。にこやかな顔がいっそ憎らしい。チェイスは顔をしかめ、水を飲むために口を拭った。

「芋が硬い理由はわかったが、聞けば聞くほどひどい料理だな」

「伝統的な製法なんですよー? 鍋に半分も食べると消化器がやられるので、チェイスの言うことはもっともなんですけどー」

熱が通る前に火から下ろす芋のシチューですよ、肉を使う時は先に入れないと食中毒の原因になりますから注意が必要ですね? とペタルは言う。チェイスは今度こそ呆れたような顔をした。

「どうかしている」



カルロが起きてくるかもしれないのでもう少し待ってみましょうか、と言ったペタルがシュガーカッターと砂糖の袋を渡してきたので、チェイスは不馴れな道具で固まった砂糖と格闘する羽目になった。先に扇のついた変な形のヤットコは、砂糖の塊を万力のように砕く。普段振るう槌の方がよほど使いやすいと思っていると、茶の袋を掴んだペタルが沸かした湯を持ってきた。

「そういえば、この間言っていた名前の話なんですがー、城の中にいても全員が偽名を使うわけではないって知っていました?」

唐突に切り出したペタルへ、チェイスは怪訝な顔を向けた。急に何を言いだすんだと思いながら、割り砕いていた砂糖を適当にシュガーポットへ押し込む。無視をするつもりであったのに、ふと一つ浮かんだ疑念がチェイスに口を開かせた。

「……『ペタル』は偽名ではなく、おまえの本名だってことか? 俺にも出生時につけられた古い名があったように……『チェイス』が魔法使いどものなかで使うように定められた通称でしかないように?」

それで元の名を忘れていては世話ないが、とチェイスは投げやりに続けた。ペタルは少し困ったような顔をして首を傾げる。

「そんなような話ですがー、なんていったらいいんでしょうねー? これが本当の名前ってわけでもないんですよ。自分には名前がないんです。ペタルというのは蔑称で、自分にはこのほかに正式な名前があるわけでもないのでー?」

「は? 蔑称? ……何?」

「人間の腹から生まれたのでペタルと呼ばれているんです。おそらくはー、あなたや他の外生まれと区別するために?」

あなたが外で生まれたのだと聞いて気がついたんですー、とペタルはにこやかに続けたが、言われたチェイスはますます混乱した。

「待て待て、話が全然繋がってない。俺だって条件は同じだ。城の外だって人間が木から取れるわけじゃないだろ」

「もちろん、あまねく生命は腹から生まれてくるものです。でも実際の現場を見たのと見ないのではやっぱり違うってことなんでしょうね? 自分は人間の股を通ってきたので、そのように名付けられました」

「だからそれがどう関わって……」

言いかけてチェイスは絶句した。人間の身体の中で、花弁ペタルに喩えられる場所は二つある。一つはお喋りをするふっくりとした口のふち。そしてもう一つは、二本ある足の隙間の。

「チェイス? 顔色が悪いですよ、気付けが必要ですか?」

「……どんな」

「はい? アルコールは大丈夫でしたっけ?」

「どんなつもりでそれを名乗り続けた?……お、おまえのことがわからない。そうだ、昔からそうだった。どういうつもりなんだよ、本当に。おまえの言うのは昔から道理の通らないことばかりだ」

言えば、きょとんとした顔が目の前にあった。チェイスは目眩がするのを感じ、眼鏡の下を指で拭った。

「詳しい由来に触れなければよくある名前ですのでー? あんまり気を遣わなくて結構ですよ、普段通りペタルと呼んでくださいね?」

そう言ってペタルが目の前でぱっと手を振ったので、チェイスは身体を竦ませた。これなら気付けは必要なさそうですね、とペタルは言って微笑んだ。



「カルロ、起きてきませんねー? もう少ししたら部屋に行ってみましょうかー」

「ああ……」

塊の砂糖を口に放り込み、チェイスはちらりとペタルを窺った。あんなことを言ったあとだというのに、ペタルは普段通りの顔で茶を啜っている。どうしてこんなことになっているんだろうな、とチェイスは思った。由来も行く先も知れない暮らしなど放り出して、どこぞへ逃げられるのならどんなに良いだろう。城の中で育ったチェイスにできることと言えば閨での歓待と剣を打つことだけだ。街には伝手がないし、工房を持てたとて生活用の包丁や鉈を売るだけではとても暮らしていけない。だからといって、今更城に戻って馴染みを客に、暮らしの面倒を見させるなど絶対に御免だった。物思いに沈んでいるとゆったりした足音が聞こえた。顔を上げれば、そこには紺のネグリジェを着たカルロが不機嫌そうな顔で立っていた。

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