錯誤-12(沈み行く桃源郷について)

「遅れて悪かった。腹が減っているだろう。すぐ食事の用意にかかるから……」

顔色の悪いカルロはそう言って、ネグリジェの袖をのろのろとまくる。吊ったエプロンへ手が伸びたのを、ペタルは遮った。

「今朝はスープがありますよ。カルロもいかがですかー? チェイスと二人で作ったんですー」

顔を伏せたカルロは一言、手を煩わせた、と言ったようだった。謙遜するような言葉を返したペタルが台所へと消える。なにくれと世話を焼く姿は御用聞きのようだったが、それにしても嬉しそうだ。どうにもペタルのことがわからない。座ったまま砂糖を砕いていると、椅子を引くカルロと目が合った。


昏い目をした男はじっとこちらを見たかと思うと、低く一言、『すまなかった』と言った。『すまなかった、チェイス』と。チェイスだけに向けられた言葉であることは明らかで、それは食事の時間が遅れたことへの謝罪ではなかった。なにが、と問い質そうとしたチェイスは口を噤む。腰を下ろしたカルロはもうこちらを見てはいなかった。視線の先には皿と水とを運んできたペタルがいて、普段よりも楽しげなペタルは匙をカルロへ握らせる。

「カルロ、温かいうちにどうぞ? 食べると元気が出ますよ」

「……世話になる」

二人の見ている前で、カルロは普段の倍ほど時間をかけて皿を空けた。その間、うまいともまずいとも言わず、唯一の具材である芋をペタルの口へ三回ほど突き入れた。普段なら、気持ちの悪いことを、と思うところだが、今回ばかりは単純に芋の味が悪いのだろうと思った。スープを作った当のペタルは、横でテキパキと茶をそそいでいる。チェイスはさっき割った砂糖を差し出した。誰もが黙りこくっている。どうにもやりづらいことこの上ない。砂糖壷の蓋を取ってひとかけ口に含むと、ざりざりと舌を撫でる粒はかわらず甘かった。



「それで、カルロー? 具合の方はいかがです?」

配下を失って寝込んでいたらしいネクロマンサーにかける言葉がまずそれか、と思った。匙を茶に浸していたカルロがあからさまにギクッとした。もう少し言い方ってものがあるだろうと思っていると、カルロは視線を彷徨わせ、何故かチェイスの方を見る。瞼が僅かに動いたので、おや、と思った。

「……ペタル、チェイス。そのことでお願いがある。……聞いてくれるか」

「はい、どうされましたかー?」

「……お願い? ……俺にも?」

「そうだ、二人に。これから話すのは、とても……大事なことだ」

顔を上げたカルロの目がどろっと濁る。その表情は、城に住む魔法使いがいよいよおかしくなるときのそれによく似ていた。チェイスは平静を装い、次の言葉を待つ。背に回した手で、シュガーカッターを握ったまま。



「……まずは謝らせてほしい。こんなことになってしまって本当に、申し訳ないと思っている。だが、食糧事情はいよいよ悪く、俺にこれ以上ここでの暮らしを継続をする能力はない。従って、立ちゆかなくなる前にここを畳み、慣れ親しんだ山に帰ろうと思う。それで、今のうちに後のことを決めておく」

カルロが言うことはつまり、城の解体をしようということだった。チェイスは百二十年と言われている術士の寿命を知っている。それが尽きるとどうなるのかも、いくらかは。もしこのいくつともしれぬ男が世を儚んで暴れ出すのなら、殴り殺してでも止めようと考えた。だが、言葉は存外理性的で、それがチェイスを狼狽えさせる。

「……なにか質問は」

「………………待ってくれ。あー……待て、そうだ。それだと俺の契約はどうなるんだ?」

混乱に飲まれつつあるチェイスにはそう訊ねるのが精一杯だった。

「契約は終了する。期日までの給金は次の支払い分から充てる。この家の所有権も放棄する、必要なら使ってくれ。この先食事の用意はできなくなるが、それは残す家財の分で相殺してくれたらと思う。そうだ、この指輪も必要なら融通しよう、たいした金にもならないだろうが」

すらすらと流れる言葉は、すでに決まったことを台本通りに通告しているようだった。依然として目は濁ったままで、まともな精神状態とは思えない。だが、流石にこれは予想外だ。この男は城を畳み、魔術道具さえ手放すという。チェイスはゆっくり唇を舐める。

「カルロは……どうする気なんだ。そもそもネクロマンサーだろ。城主をやっていた術士のおまえに……帰る場所があるのか?」

「……メジームなら土地勘がある。そこは俺の……『カルロ』の生まれ故郷だ。社会の中で術士の身分がどう扱われようと、使われていない家屋の一つくらい、奥地に行けば見つかるだろう。俺はそこで終わるつもりだ。これからは苦痛に満ちたものになるだろうが、ここに残っておまえたちを滅亡の道連れにするよりはよほどいい。だから、ここはもうおしまいにする。わかってくれるか」


目を伏せて、頼み込むようにカルロは言う。あまりに急だと思った。口をきけないままでいると、それまで黙っていたペタルが口を開いた。

「終わるといいましたねー? 死ぬおつもりですかー?」

「おい、ペタル。おまえ、もう少し言い方ってものが……」

手を上げて制したカルロは、焦点の定まらない目をペタルへ向けた。

「……人間はいつか死ぬ。すぐではないにしろ、確実に。これ以上の進展が望めないなら、それがいつでも同じことだ。違うか」

「だから諦めると言うんですかー? カルロはまだ先が長いんですから、なにもいま決めなくたっていいでしょう?」

言いつのるペタルに、カルロは冷たい目を向けた。チェイスは黙って会話を聞く。

「……ペタルはなぜ俺に付き従う? 雇ったからだ、命じたからだというのはわかる。それは契約だからだ。だが、『俺はなにも命じてはいない』。ペタルには出て行く権利があるだろうに。なぜ、そうまで懇意にしてくれる? 親切だからだというのでは説明がつかない。こんなことに付き合わせて、俺は自分が情けない」

「まるで自分がしぶしぶここにいるみたいな言い方をするんですねー? それとも、カルロに追い出したい気持ちがあってそんなことを言うんですかー?」

ペタルが言えば、カルロは疲れた顔を青ざめさせて、ゆっくりと首を横に振った。

「いてほしいと思っている。だが、ペタルを案じているのだって本心だ。ペタルにこれ以上罪を着せたくはない。あんまり、あんまりだ。より悪くなるならなにもしない方がよほどいい! ……これまでの間に随分と世話になっている。恩義がある。引き留めて困らせるような真似もしないつもりだ。そうだ、それが良かろう。俺の事など忘れて、どこへなりと行くがいい」

いっそ悲壮なほどの言葉を受けたペタルが口角を上げ、心底愉快そうに笑い出したので、チェイスはぎょっとしてペタルを見た。やおら立ち上がり、高らかに笑うペタルは爛々と輝く目を隠しもしない。

「カルロはそんな風に思っていたんですか? だから、終わらせたいなんていうんですねー? 私はここの暮らしが気に入っているんです。あなたがやめたいと言っても受け付けませんよ」

カルロもチェイスも緊張した面持ちで成り行きを見守っていた。ふと我に返ったらしいペタルは机に手をついて、嬉しそうに言った。

「……そういえば、これまでは自分の話をすることってなかったかも知れませんねー? 良い機会ですし、話しておきましょうか。あなたの言った『なぜ』の答えを」

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