白樺屋敷-7(日没に向かう眼について)

声が意識を引き戻す。フワフワと覚束ない身体を揺らすのは、青く黒い影だ。青、臙脂、紺、それから灰色。そこへ垂れる、輝く藤色。きらきらと雲母の靄が立ち、その姿をいっとう輝かせてみせる。握られた手に指が這う。すりあわされる手は助けを求めるときの仕草で、ああ、この男も不足に苦しんでいるのだ、と思う。なれば助けてやろうと考え、リロイは懐を探った。鎮静剤は先ほど渡した分で最後だった。自分にできることといえば引かれた袖に応じてやることだけだ。首元のボタンを外せばスカーフを抜かれる。呼ばれるのを待っていると、急に顔を押さえつけられる。


歯へと投げ込まれた何かが当たり、舌が、喉が、胃が順番に熱を持つ。次いで、ぎゅっと耳を引っ張られた事で視界がはっきり像を結ぶ。薄暗い部屋の中だった。頬に濡れたような不快感があり、リロイは未使用のハンカチを探して顔を拭う。

「ようやくのお目覚めか?」

目の前にはヴィクターと、夢の中で出会った男がいる。いや、こちらが夢なのだろうか? 服ははだけていて、寝台の上には獣の皮が山と積まれている。ああ、だからここはこんなに死臭がするのか、とリロイは一人納得した。ぼうっとしていると、ヴィクターが剣を差し出してきた。握られていたのは『暁』だ。礼を言って受け取ると、ヴィクターは少し不服そうな顔をしていた。

「おまえ、ここで一体なにをしていた。生け捕りにしろって言われていたんじゃなかったのか?」

「生け捕りって、なにがだ…… 俺は頼まれていないし、そのことで咎められる謂われはない。そもそも生きているものなんて居なかっただろう」

意味のわからないことを言うのだな、と思ったが、それ以上は互いに何も言わなかった。リロイは身体を捩り、乱れていた服の前を直す。呼ばれて顔を上げると、鞄を投げ渡された。

「帰るぞ、ここにこれ以上の用はない。これを持っていってくれ。遺留品だが重くてかなわん」

言葉通り、ずっしりとした鞄は樫の木を釘で留めたもののように見えた。古い造りの道具鞄だ、とリロイは思う。ヴィクターは証拠の品だといって小柄な熊を抱えていた。生きているのか死んでいるのかはリロイの目にはわからなかった。生け捕りといっていた。ならば、あの熊は眠っているだけなのだろうか、と考える。ともあれ、外へ出るために歩き出す。


部屋を出るヴィクターについて歩く。そこにいたような気がしていた男は跡形もなく消えていて、やはり夢だったのか、とリロイは思った。黙って歩いていると、すぐ横をついたり離れたり、蛇行しながら歩いていたヴィクターがちょっと首をひねったのが見えた。

「リロイ、おまえ、帰ったら医療局に顔を出せよ」

「道中に負った怪我は直したはずだが、どこか傷になっているのか? 自分ではわからないな……」

まあそんなところだ、といってヴィクターは口を濁した。妙な感じだと思うが、そうだというのなら追求はしまい。リロイはただただまっすぐ歩く。土地に広がる白樺林の半径はどの程度だっただろうか。このまままっすぐ歩き続けていればいずれは縁へ行き当たるだろう。足下にガラスの欠片があるのを見つけ、避けて進む。

「……ついてきているか?」

「すぐ後ろを歩いているから、そのまま振り向かずに歩いてくれ。俺は早く帰りたいんだ」

そうか、と答えてリロイは進んだ。歩き続け、気がつくと門の外にいた。横にいるヴィクターと目が合う。このまま街道まで出てそこから議会へ飛ぶ、と先を歩いていた自分よりよほど疲れた様子のヴィクターが言うので、リロイはそれに従った。



たどり着いた議会内部の待機部屋で、抱えていた小熊を降ろしたヴィクターは鋏を取る。腹を割いて毛皮の中から杯や皿を取り出しているのをみて、手際が良いのだな、とぼんやり思う。

「得意な人間を呼んでこよう、誰が良い。獣の解体ができるとなると山岳地帯の出身者が適当か?」

「……いいや、それには及ばない。ここも俺が片付けておくから安心しろ。獣といったな? どんな種類の獣に見える」

「何って、これは熊の仲間だろう。穴熊にしては大きいが…… ああそうだ、蚤の駆除薬をだしてもらわないとな、野山の獣はこれが困る……」

「それも手配しておくからしばらく寝ていろ。疲れているんだろう、ひどい顔色だぜ」

「……そうか? 自分ではよくわからないが」

鏡を見ようとして止められる。黙って首を振る所を見るに、額に怪我でもしているのだろうか。ぺたぺたと顔を触るが、鼻が取れているわけではなさそうだった。ともあれ、勧め通りにシーツを敷き、靴を脱いで床へ寝そべる。眠る前にヴィクターが水筒をくれたので、中身を確かめてから飲んだ。花の匂いの薬草茶は休息を促すためのもので、ありがたいことだと思いながらリロイは短い眠りについた。


◆◆


眠り続ける男二人に挟まれて、ヴィクターはただ渋面を作る。リロイの先導無しには結界から出られなかった。それは紛れもない事実だが、どうも本人の様子がおかしい。あの不可解につなぎ合わされた空間を迷いなく進んでいく時点で妙だとは思っていたが、帰ってきてからも掛け違えたような言動が続く。なにより、本人が気がついていないらしいのがどうにも気がかりだった。出口へ向かっているとき、振り向こうとしたリロイの足下は細い板材一枚で、後を付く自分は踏み外さないよう歩くだけで精一杯だった。だが、本人の知覚では平易な道であったとしたら。リロイが気付かず踏み外していたらどうなっていただろうか。考えるのが嫌になり、ヴィクターは自分の耳をつねった。ここは現実で、今はこうして戻ってきている。そのことが確かであるなら、その他は全て些末なことなのだろう。おそらく。


それにしたってこれが熊とはずいぶん目が悪くなったと見える。ヴィクターは床に倒れている男へ目を向けた。簀巻きにされた術士は体格こそ良いが、まだまだ『人間』の範疇だ。自分が知らないだけで、アレスには頭の黒い二足歩行の獣がいたりするのだろうか。いないだろうな、と思う。そもそもアレスはブロンドの国で、黒毛を探すのなら東か北だ。まともに考えれば幻覚症状だろう。それも重度の。結界調査の後遺症に違いないなと考えて、出掛ける前から憂鬱そうにしていたリロイの様子を思い出した。原因の切り分けが面倒になるからやめてほしいんだよな、と思うが、起こったことに文句をつけても仕方がなかった。ヴィクターは医療局の職員へ連絡し、病状と精密検査の要を伝えた。少し考え、本人には黙っているように、と続ける。それから議長には帰還の報告。持ち帰った物品を解析班に受け渡し、男は隔離のためにアンセル(塔の独房)へ。食料の残り数からして、結界内部でなにか食べたのかも知れないと思い至り、食事の手配もしておく。分担してやれれば良かったようなものを、と思うが、現状リロイは使い物にならないので目をつぶる。薬湯で洗えば直るだろうか。妖精の悪戯には何が効いただろう。それらがアレスには自生しない類いの草であることに気がついて、ヴィクターは顔を曇らせる。なければ自前の薬草園から切ってきたらいいか、と考えたヴィクターは、さしあたって自身の身を清めることにした。


何はともあれ今は休まねばならなかった。結局消えたという近隣の住人たちは見つからず、成果は気の触れた術士が一匹だ。これがどんな結果をもたらすのか、あるいはどんな結果をももたらさないのか、どうにも見通しは立たなかった。だが、まあ、それでいい。調査依頼を出したのは上で、答えを出すのはヴィクターの仕事ではなかった。気を取り直し、報告が終わったら何をしようか、と考える。今回の報酬が支払われたら、町に出て装備の一つでも仕立てようか。ヴィクターは退屈な想像をいくつかして、リロイが目覚めるのを待った。

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