白樺屋敷-6(夕刻過ぎの逢瀬について)

ヴィクターは奇襲をかけ、奇妙な声を上げる男を背中側からリロイとおぼしき相手へと押しつけた。押さえつけたまま、鋏でじゃきじゃきと翅を落とし、残った根元も同様にする。躊躇いも手加減もなくねじり折ったために鱗粉が舞ったが、緑の血を吹き出して絶命すると思われた男は平然としていた。目元に巻いた装飾帯の裏からでも、そのことははっきりとわかる。

「みゆあ。えあぇうぇいいぐ、んぉうい」

男は生きている。きらめく薄緑は舞うことなく地に落ちる。汚された剣の落とし前がつけられることはない。身体の影でまじまじと見るそれは染色された布だった。ヴィクターは毒づき、二度三度と踏みつけにした。腹の収まらないヴィクターはそのまま手袋の魔術回路を起動させ、床に落ちた偽の翅をにじって燃やした。抑えられていた男がリロイを押しのけ、しゃがむヴィクターの背に躓いて転ぶ。風が立ち、翅は生臭い煙を吐きながらバチバチと燃え上がった。四つ足をついた男はわずかに舌を出し、声を上げると火を掴むヴィクターの腕を強く引いた。抵抗する間もなく床を引きずられる。桁外れの力だった。そうして薄暗い部屋に踏み入ると、そこらで休眠している妖精達を蹴り出し、積んであった藁くずらしきものへ未だ火の残るヴィクターの腕を押し込んだ。藁くずはたちまち燃え上がり、やけどを怖れたヴィクターはさっと手を引く。ヘアフォアは歓喜の声を上げたようだった。光に寄せられたニンフの翅に炎が燃え移り、有毒の鱗粉をまき散らす。大きな槌を持ってきたヘアフォアは地団駄を踏んで怒鳴り、引き寄せられてきたニンフの数体をたたき殺した。


ごうごうと燃える石積みの炉を背に行われる全ては、異常な光景と言うより他にない。巻き込まれては大変だと部屋を転がり出たが、男は追っては来なかったようだ。立ち尽くすリロイに、ヴィクターはズボンで灰を拭ってから手を耳元で打ち鳴らした。反応は鈍く、鱗粉毒の影響下にあるのがありありとわかる。こんな所にいては仕方のないことだ。先ほどは何事か喋っていたようだが、何をどこまで理解しているかもわからない。そもそもこいつは本物か? よく見てみようにもここの光は強すぎる。それこそ目隠しの帯さえ貫き通すほど。

「……これは最悪のパターンかもな」

爪先で床の燃え痕を踏むと、硬いはずの石の床は少したわんだように感じられた。ヴィクターはハンカチを重ね持ち、寝台横の揺りかごから粘液まみれの剣を取り出す。食卓に並ぶ壺の中身を確かめるが、中身は水ではなく白樺樹液のようだった。ヴィクターは洗浄を諦め、そこらに落ちていた帯で剣を巻くと無理矢理鞘へとねじ込んだ。布の山へ寄れば、なくしていた上着はわりあいすぐに見つかった。ヴィクターはひとまず息をつく。



外套を身に着け、これからどうすべきか考える。とにもかくにもやることが多い。結界の全貌も未だ不明だ。中心部に近いらしいこの一帯は見るからに入り組んでいる。そして頼りの相棒はこの通り本物かどうかもわからない。この特殊な状況では斬ってみるのも愚策だろう。本物だとして、毒で反応が鈍っているところを斬り殺してしまったのでは冗談にもならない。治療できる設備も無し、逃げるにしても行き場がない。またここへ来られるかどうかも考えに入れねばならず、ぐずぐずしていると明かりが落ちる。


雲が太陽を隠すようだった。ヴィクターは目に巻いていた装飾帯を僅かに降ろした。吹き抜けの上方、光の差していた方向に空間の短絡が見えた。人為的に操作されたフィールドなのだろう、ねじ曲がった空間は粗雑なわりに綻びがない。戻る足音を聞きつけたヴィクターは辺りを見渡し、布の山へと隠れた。木靴を履いた男は両手に銀色の腕輪を携えて、丸っこい舌を蛇のように出し入れしながらこちらへ向かってくる。ヴィクターは呆けているリロイの肩をつつく。腕を伸ばして隠れるよう相図を出してやったが、リロイは動かない。あろうことかふーっと息を吐き、剣を抱いてその場で寝始めた。やってきた男は寝台の周りを二度回ると、身体を乗り出してリロイの頬を舐めた。先ほどの自分と同じように囓られるのかと思ったが、男は離れた。身体の上に乗った剣を抱え上げ、鞘ごと揺りかごへと運ぶ。あのかごに何かあるのかと思うが、注視したところで、どこにでもあるような普通の揺りかごなのは変わらない。


寝台の上から調子外れの歌が聞こえてきて、ヴィクターは目を戻す。男は手にした腕輪を袖で磨き、身体を揺らして歌っているようだった。男の歌はかすれていて、聞くに堪えないほど下手だった。変なところで歌を止め、男は鱗粉のついた黒い手で顔を擦る。頭にのった冠から孔雀色の粉が舞う。毛皮とセットで扱われる特製の腕輪が枯草色のコートの腕へつけられるのを見て、どうにも気まずい思いをした。捧げ物にする気ではあるまいな、と思う。飾り立てた人間を贄として差し出すというのは、さほど珍しいことではない。そこに婚姻用の腕輪飾りが入ってくるということも。


止めた方が良いのだろうか。契約の類いを口にされたら困るな、と思いながら目をやると、寝台の上には見たことのもないような美しい女が死んだように眠っている。ふっくりとした唇に、顔を縁取るのは陽光を思わせる金の巻毛。ヴィクターは驚いて目を擦った。目を開ければそこには見知った男がいるだけだ。だが、あの髪の色は最近どこかで見たような気がする。ヘアフォアと呼ばれた男は、垂れる唾液を苛ついたように拭いながらリロイへ何事かを話しかけている。呪詛の類いだろうか。それとも別の、寿ぐような? 早いところなんとかしないとまずいな、とヴィクターは思った。それは、目の前に横たわる肉体の真贋がどちらだったとしても。



男はひとしきり喋り終わるとどこかへ行ってしまった。寝台の上には垂れ落ちた唾液の痕がある。腹を空かせた獣のようだなと思ったことで、ヴィクターは手持ちの食料を失っていたことを思い出した。魔術士の兵料は自然にない加工食だ。持っていれば本人だろうと当たりをつけて、伏したリロイのコートを探る。馬乗りになって胸元を探っていると、腹にかじりついて食い荒らしているようだ。錠剤の間に油羊羹の包みを見つけてほっとする。礼儀として一声かけ、引き出そうとすればリロイの目が虚ろに開く。先ほどまで何の気配もなかった背後から低い声が響き、ヴィクターはあちこちにあった空間の短絡を思い出した。常ならばあり得ないような失態に舌打ちをし、咄嗟に退いて構えたが、男は脇を抜けて寝台のリロイへと駆け寄った。ぐうぐうと喉を鳴らし、手は金の髪を滑る。光を反射するものしか認識できていないのか、と気がつき、ヴィクターはゾッとした。ぼうっとしているリロイは乱れた胸元とすがる男に何を思ったのか、ああ、とどこか悩ましげに呟く。

「……苦しいのか。空腹だともいっていたな」

慈しむような声音が何に由来するのかわからない。手袋を抜いたリロイは先ほどヴィウターが探っていた紙包みの油羊羹を取り出し、錠剤をいくつか割って男へ差し出した。やわらかいヌガーは指先にまとわりつき、男は獣のように手袋の先や紙をねぶった。それから錠剤の山を豆のように囓り、満足そうに息をつく。蝿が死体の上へ降りるように、冠を頂く男はリロイへと覆い被さった。そうしてそのまま動かなくなる。


ヴィクターは潜り込んでいた布の山から抜け、動かないのを確認してから男の脈を取る。暗い中で見る手袋はひどく汚れていたが、その下の肌は垢だらけで手袋以上に黒い。汚れにまみれた冷たい腕は、遺棄された死体を思わせた。ヴィクターは襟元を掴み、服の合わせ目を縫い付けられたボタンごと引きちぎった。垢染みた衣は滑らかな繻子織で、服の下には鎖骨やへそ、それから乳首がある。それは腹から生まれる生き物の証。それに加えて、指に並ぶのは術士を表わすいくつかの指輪。議会の求めた生き残りは、あろうことか結界に根を張る術士がひとりだ。処遇に困ったヴィクターは男の手足を縛り、鱗粉が広がらないよう外した冠を布で包んだ。口に手持ちの鎮静剤をあるだけ詰め、薬が回ったであろうタイミングで予備としてもっていた代謝阻害の指輪をはめる。ここで斬るべきだろうか。長剣が使えないのを思い出し、ヴィクターは揺りかごに捕らわれていたリロイの剣を拝借する。使うために抜いた剣には既にべったりと血がついていたので、ヴィクターは何も言わず鞘へ戻した。

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