白樺屋敷-5(日中午後の再会について)

砂埃の舞う屋敷をまっすぐに進み続け、たどり着いたのは広く異様な空間だ。湿った土と乾いた唾液の混じるような悪臭。ツタの絡む高い吹き抜けに差す光は太陽が顔を覗かせたのかと錯覚するほどで、推定二万ルクスの光が暗がりに馴染んだ目を眩ませる。向こう側、光の束の中心には歌う男がひとり。なで肩で、小柄。やや痩せ型にみえる。肘まである手袋をつけていて、肩に沿ってうねる髪と四肢の先端は黒い。それが腕に特徴のない剣を抱え、短い歌を繰り返しながら逆光の中に薄緑の冠を光らせている。リロイは戸口の陰から様子を窺った。幻覚だろうか。それとも人か、それ以外か。



じっと様子を伺っていると左側、八時の方向から人の声が聞こえた。呟きは疑問形、クレイドルソング、と言ったように聞こえた。声のした先を向けば、離れた場所には見慣れたつば広の帽子が見える。アラベスクの青い帯装飾に織地の上着、そこにいたのはヴィクターだった。通路の薄明かりに立つ身体は広間の強い光に浮かび上がり、部屋の中心へ向かう靴先はぼんやりと光っている。絵画のような光景に一瞬時間が止まる。すぐ届きそうな距離にいたヴィクターはこぼれ落ちるように視界から抜け、辺りに知れず満ちていたざわめきがさっと止む。壁の向こうで立つ羽音。それが何を示すのかわからないリロイではない。こぼれ落ちた、掬い損ねた。それはリロイの怠慢だった。


取捨選択の余地はない。迷うような猶予も。保身を望む気持ちなど、相棒が損なわれる恐怖や不利益に勝りはしない。剣の柄に手をかけて明るい方へ踏み込めば、視界には黒い睫毛と金の光彩が飛び込んできた。それは先ほど、自分が遠くから様子を窺っていた男だ。だが距離がおかしい、男がいたのはずっともっと先だったはずだ。天から差す強い光がリロイを竦ませ、勢い込んだ足が止まれば、そこは広間の中心だ。かち合った目がゆっくりと見開かれる。近距離で発された甲高い音に、端で見るより上背があるように感じた。威圧的な大声と目を焼く昼光にリロイは動けなくなってしまった。


はたしてそれは笑い声であったのか。喜色の気配を滲ませる長髪の男はぬるりと身を寄せ、腕の剣をリロイへ抱かせた。そのままキュイキュイと鳴いたあと、回りから羽音が唱和する。視界には入らないが、どう考えても一匹や二匹ではない。襲ってこないのが奇妙といえばそうだ。だが今ここで剣を抜けば、相手を刺激してしまう。肘まである、白黒階調の手袋が目に付く。どうするべきだ? どうしたらいい。眩しくてたまらない。逡巡する間に背を押され、両腕の塞がっているリロイは拒むこともできずに部屋を移された。連れ込まれた部屋は比較的静かで、晴れた日の午後と見まがうような様子だ。先ほどより幾分かましとはいえ、夜から抜けて間もない身体に明かりの強さがひどく堪えた。目を眇めたリロイが隙を探っていると、いくらか上機嫌に見える男が金切り音を発し、リロイの手から再度剣を奪って揺りかごへ抱き下ろした。そもそもここはなんだ? 腐臭が鼻をつき、青緑色の塵がたち、リロイの注意を千々に乱れさせる。広い台に山と積まれるのは古びた布だろうか。促され、警戒したまま腰を下ろせば、男はずいとそばへ寄る。


それは、小鳥を呼ぶときの声が近いだろうか。男がピルピルと唇を震わせれば、虫が一斉に群がるのに似て人のような影が波立つように傍へ寄る。喩えるなら、陽炎に似ていた。何かをするより前に群体はさっとはけ、緑のきらめきの間に皿らしきもの、壺、粒の何か、黄色い粉、暗い色の塊が残った。一抱えほどもあるそれは芋虫のように時折動く。キュイキュイと喉を鳴らす男が腰を折り、黒い塊の隙間へ顔を押し込む。背の光沢がハチドリのようだった。丸い口がついばむのを見ていると、聞き慣れたような声が跳ねる。違和感に目を細めると、黒いだけの輪郭につば広の帽子が現れ、群青の織地が浮き上がってきた。塗りつぶしたようだった黒い塊は、瞬き二度でヴィクターになった。台を離れた男が揺りかごの刀身へ唾を吐きかけて歌い始めたので、リロイは視線のそれている間に拘束を解いてやった。切れた帯を見てふと、このヴィクターは本物だろうかと考える。質量のある光で目はよく見えず、現実感が揺らいでいく。



台から即座に飛び降りたヴィクターが声を上げ、次いで耳慣れない言葉でなにかを訴えた。何か策があるのか、と思っていると、かごを揺らしながら短く口笛を吹いていた男が振り向く。何度か顎を撫で、口を開けてごがごがと喉を鳴らしたようだった。髪をがしがしと掻いた後、予想に反し、男は大股でこちらへ歩み寄ってきた。さもそれが当然というようにリロイの顔を覗き込む。ぎょろりと睨め付けるような視線と腐葉土混じりの泥じみたにおい。ヴィクターの方へ向かうと思っていたリロイはまごつき、後手に回った。

「いゆや。……んぃ、ゆ、や。ぃみ、み、みうあ。みゆあ、みうあ」

みうあ、と言って白皙の男はリロイの肩へ手を回した。見た目よりも重さのある、労働者の腕だった。驚いたリロイを目を眇めた男は見上げる。陰になった金の目が焦点を定めようと揺れて、リロイはその目があまり機能していないらしいことを知る。

「いむまえ、だぉえ、ゆぃあっだあ、ぉいおおどあ。ぅあんだおぇ」

すらすらと話すようだが、リロイはこんな鳴き声を持つ生き物を知らない。むふ、と鼻を鳴らし、男はヴィクターの横に並ぶ壺から皿に粘性のある水を注いで差し出す。反射的に首を振れば、奇妙に鳴く男は白っぽい目を瞬き、伸ばした舌で皿を舐めた。次に打つ手を考えているリロイへ、男は詰め寄るように顔を近づける。口の隙間から青い舌と黄色い歯が覗いた。

「おぉいうあっただあ。ああ、おえをぅべ。わぶえだあ。えあぶぇあ、え、ぃえ、ふ…… へ! へあ、ふぃ、ぉあ。ぃえ! だあ! ぁう」

胸をどんと叩き、短い発話を同じイントネーションの一区切りを繰り返す。互いの顔を交互に指さし、手袋に包まれた腕はリロイの肩を苛立たしげに掴んだ。見た目より力が強い。リロイはひどい混乱を感じたが、機嫌の悪そうな様子を察して、相手の言うことを繰り返した。噛み付くようなうなり声が飛び、似た響きだが違う音が投げかけられる。繰り返し応じてやれば、男は不意に口笛を吹き鳴らし、別の音を同じようにして繰り返す。それを何度も繰り返した後、再び胸を叩いて最初の言葉。リロイは一巡した後に全てを繋げて呼びかける。

「……ヘアフォア?」

口笛を吹いて男は頷き、冠を乗せたままがりがりと頭を掻いた。髪の隙間から湿ったふけがこぼれる。もう一度同じ事を言えば、もう一度頷く。とくれば、呼びかけか、名前らしかった。リロイは冷や汗をかく。場は拮抗状態にあるが、いつ崩れるかどうにも読めない。今のところは穏便に運んでいるようだが、いつまで続ければ良いのかもわからない。暗く光る金の目は、ただ爛々と輝いて見えた。

「みゆや、おむぃづしだど。おえだ、えぁぼあ」

やりとりのタイミングには不自然な部分がない。だが、言葉が通じているような気配はない。助けを乞うようにヴィクターの方を見れば、黒い身体が突っ込んできた。黒一色の帽子、つばの下の青い顔には起伏がない。ぎょっとしたリロイは男に押されて転びそうになり、身体を抱えるようにして踏みとどまった。

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