白樺屋敷-4(浮雲と昼の探索について)

ヴィクターは石造りの廊下を歩いていた。とにもかくにもそのはずだ。天地は上下に別たれていて、重力の向かう方向に靴の底が向いている。交互に足を差し出して、ヴィクターは前へ向かって進んでいる。



道は途切れることなく繋がっているが、妙なところが短絡していて、変なところに進行不可の障壁がある。異国のしつらえ、そういう趣向の部屋なのだとしたって、ずいぶんといびつな屋敷だった。扉を出れば階段があり、階段は部屋へホールへ廊下へ壁へ、まるで無作為に繋がった。縦横無尽の広がりはとうてい現実のものではなく、区画ごと様子を変える空間は高熱の見せる病の夢に似ていた。だが、部屋で見せられた幻には指向性があり、そこだけどうも通常の『巣』とは違うように感じられる。そうだ、願望を鏡映しに再生するだけなら自分の姿が変えられるいわれはない。ならば、もう一枚、未知の何かが噛んでいる。だがそれはなんだ? 考えていたヴィクターはふと生存者の存在に思い至った。人間が複数いれば夢同士が混じり合うこともあり得た。それはヴィクターが眠りの国へ踏み込んだように。だが、魔術に親しんだヴィクターが踏み入るのでさえ幻覚剤の補助が要る場所に、ただの人間ではそうおいそれと行き来はできまい。そこまで考え、『そうではない』人間がいることに気が付いてヴィクターは肝を冷やす。まさかあれがリロイ本人ではあるまいな、と思うが、今の時点ではどうにも判断はつかなかった。ヴィクターは暗澹たる心地のまま、不安定な地面を歩き続けた。


様々な困難を乗り越えてきた身でも、あまり考えたくない事柄はある。例えば、顔見知りが損なわれること。例えば、味方が寝返ること。それらは単純に生命が脅かされることよりも数段上の厄介ごとを連れてきた。心の中で悪態をつき、床の扉に入り込んだヴィクターは複層になった夢から覚める。不当なまでに身体が軽く、もしやと思って懐を探れば、なくなっているものがいくつかあった。ヴィクターは重なる不運に苦々しく思いつつ、奪われたものを確認した。まず、剣と食料がない。これは非常にまずかった。帰るつもりのあるヴィクターにとって屋敷内部の食物は積極的に取りたいものではなく、剣は魔術士の生命線そのものだ。腹に入れてある兵料の残りはおおよそ二日分ほどで、それを越せば屋敷からは出られまい。ないないづくしのこの状況で、頼るものが減れば生存率に影響が出る。せめてリロイだけでも見つからないものかと思うが、願うだけで事が運ぶのならばこの世に議会は存在しない。ヴィクターは深いため息を一つ吐くと、残った装備の数を調べた。



元より奪われていた外套を除き、食料と剣以外の、失って困る品の類いに欠落はなく、ひとまずヴィクターはほっとする。大方ニンフの仕業で、それが違っていもせいぜい食い詰めた術士だろう。銀貨の一枚を手に握る。金目のものが残っているので人間ではないようだ。さて、困った。簡易な占いのために投げて取る。ゼロか、イチか。ゼロ。新造アルゴス銀貨は女王の威光を示す記念硬貨だ。イチ。共通貨幣に交換価値があるなら、ここは女王の庭たりえる。イチ。人間相手ならやりやすいものを、と思いつつ、気の触れた術士が出てきても困るので硬貨を投げる。ヴィクターは跳ね上げた銀貨が空中で消失したのを見た。投げた硬貨が落ちてくることはない。戻ってくる気配のないアルゴスにただ、助力を仰ぐことはできないのだろうな、と思った。この先は自分ひとりでなんとかするしかないが、それもまあ、わかっていたことだ。靴を脱ぎ、入り込んでいた羽の欠片を払い落とす。ここが文字通りの巣だというのならならば『かしら』がいる。結界は崩壊するだろうが、それも願ったり叶ったりだろうか。生きた人間がいれば連れ帰れと聞いているが、この様子では望みは薄そうだ。残される魔術結界の処遇は一任されていて、一面を火の海にしたところでヴィクターが罪に問われることはない。


こんなことなら油を持ってくれば良かったんだ、と苛立ち交じりに考える。現実問題、こんなところで火を撒いたら大規模な山火事になるのは目に見えていて、それはなんというか撒くのも消すのも魔術士の仕事ではないのだろうと、なんとはなしに思う。魔術士だって人間だ、火に巻かれれば死んでしまう。ヴィクターは足を止め、脇道に現れた扉に近付く。注意しながら中を窺えば、窓枠の向こうには不自然に掘り返された地表が見えた。また幻覚か、と思うが、それにしては変だ。片目ずつ目を閉じて、再度見ても風景は変わらない。考えることが増えたな、と思い、ヴィクターは床に目を留める。丸められたそれは自分の上着に似ていて、自然足がそちらを向く。濃淡のある糸が無作為に混じった杢目の布。床の一角を埋めるほどの大きさがあり、触ると毛織物のようだ。しかし見慣れない染色だ、濃さの異なる金色やブラウン、灰や黒といった暗色に時折白っぽい繊維が混じる。眺めるそれの材料が、抜け落ちた数多の人毛であると急に理解してヴィクターは弾けるように手を引いた。


目の前にあるのは髪で編まれたタペストリーだ。蜘蛛でもあるまいし、よくよく気色の悪いものを作るものだと思う。思っていないとやっていられない。端の方はまだ編み目が新しいようで、他に見られるような擦れが見られなかった。そこでふと、今回の調査の項目に失踪者の追跡調査が含まれていたのを思い出し、ヴィクターは渋々髪を拾い集めた。いくつか標本を採って紙に包む。内地へ持ち帰れば解析ができるだろう。ここには髪以外の持ち物は残っていないらしかった。卑しい仕事だ。手持ちの品だけあるならこんなことせずにすんだものを、と思う。手帳を取り出したヴィクターは頭を掻き、毛髪の集積物発見の旨を書付けて、げんなりしながら部屋を出た。



廊下の角を鋭角に曲がると極小のホールが現れた。奇妙な造りの柱を眺めていると、吹き込む風にキラキラと孔雀色のチリが混じる。ぱっと口元を覆い、ヴィクターは剣を抜こうとした。長剣を失っていることを思い出して、逃げ込んだ暗がりで短剣を抜く。光の差す廊下を気怠く飛び回るのはニンフだ。活動している個体がいるのならそこには外との繋がりがある。現れた解決の糸口にヴィクターは俄然色めいた。見つからないよう距離を保って後をつければ、まっすぐでない道筋は深部へと降りていく。羽音が聞こえたような気がしてヴィクターは肌を掻いた。床から白っぽい埃が立ち、視界の端で目のある瓦礫がうぞうぞと這う。手をついた壁は柔らかく、中には砕けた木の実が入っていた。ヴィクターは片目を瞑る。暗くなるはずの視界ははっきりと像を結んだ。手を這うアーモンドの薄皮を払い落とし、目を開ける。ヴィクターは背を追うニンフとの距離を追加で五歩ぶんほど開け、追跡を続けた。

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