白樺屋敷-3(夜明け前の歓談について)

相手を待っていた。なぜ待っていたのかは思い出せない。部屋へ招くために鍵を開けた。それで正しいはずだった。胸を満たす焦りがなんのためか考える。こうではない、正しい選択ではないと感じるのに、まっとうな理由さえ見つけられない。なぜだかひどく疲れていた。天幕は閉じている。ここには自分と、この男しかいない。



夜の帳に沈む部屋には望んだ通りの来訪がある。見知った男は寝台の縁へ腰掛けて、しばしの休息を提案した。慣れ親しんだ無音の誘いは懐かしく、リロイへ少しの安心をもたらす。陰から伸びる腕は労るように手招いた。暗闇にリロイが躊躇っていると、指がさらりと手袋に触れた。滑らかに甲を這う仕草にどきりとする。この手はここで『ひとやすみしよう』というのだ。他でもないこの二人で。腕を引かれて天幕をくぐれば、手の平が滑らかなシーツの感触を拾う。引き込むように導かれ、身体の奥底に芽吹く期待を自覚する。そこでふと、引っかかりを覚えた。今ここで、自分のしようとしていたことが思い出せない。ひどく疲れている理由も、言わねばならないような話も。健忘への不安から指先を触り、そこに指輪のひとつもない事にほっとする。記憶阻害を引き起こすいくつかの指輪はここにはない。ならば、きっと大丈夫だ。目を上げると、探していた相棒は変わらずそこにいる。相手なら覚えているだろうという、期待にも似た気持ちが胸を満たす。なだらかな稜線を持つ腕には銀の飾りと青い石が光る。相手が装飾を纏うのとは反対に、自分は指輪どころか、鎖の一筋でさえ纏っていない。自分たちが天幕の内にいるのを確認し、ああそうか、と納得する。よぎる羞恥が薄衣代わりのシーツをたぐらせた。リロイは寝転ぶ体へ素肌を沿わせる。何か言わねば、と思った。一体何を? リロイは口を開閉し、逢瀬を寿ぐために言葉をひねり出す。あちらからは白い肌が。なれば、こちらからは藤色の目を。大丈夫、合っているはずだ。本来ならば『相手を確かめるために行う問答』を、顔も見ず行ったことに若干の罪悪感を覚えつつも、互いを認めた口が重なりあえばあとは知った流れの通りだ。そうだ、これでいい。見知った男がぎこちない動きをするのは、寝台でのあしらいに不馴れなためだろうか。助け船を出してやらなくてはならないなと考え、リロイは安心させるように肩を撫でた。



湿った薄闇はどろんとした眠気のあわいに漂っている。覚え留めているというのは難題で、忘れないでいることは喜びに他ならない。人の身に収まりきらないほどの思い出を持つリロイはそれをよくよくわかっていた。古い記憶をなぞり、都度答え合わせのように肌へ触れる。行うことの全ては偶然の織りなす珍事に過ぎず、忘却に沈めば引き出すこともかなわない。今、こうして望まれたとおり振る舞えるのは、ただ運に恵まれたというだけのことだ。リロイは垂れた髪を耳へかけ、色よい肌を見下ろした。求めに応じることができるのは、ただただ幸運なことだとぼんやり思う。そう、これは思いがけない幸いだ。喜びがあり、安らぎがあり、終わりがある。終わりとはなんだっただろうか、と寝転んだリロイは考える。喜びや安らぎに近いものだっただろうか。わからない、わからなくなってしまったが、それでもいいような気がした。広く渡されたシーツは毛羽が立つほどに乾いていて、蒸すような身体を預ければ水を吸って柔らかくなる。安寧はここにあった。滑る肌は心地よく、思考は闇に霧散する。不安はなく、ただ満ち足りていた。



柔らかな時間は穏やかに流れる。後の予定は眠るだけで、誰かに急かされることもない。久しく感じていなかった安らぎと、蕩けるような夢心地がここにある。今、このときを言い表すならどんな言葉になるだろうと頭に辞書を浮かべてから、ふとリロイは気が付いた。今は夜で薄暮ではない。部屋を満たすのはとうに眠っていて良いような暗闇だ。寝台へ招こうというのならなぜ日の入り前を選ばなかったのだろう。用意もなく急拵えになった閨衣装や、香炉のひとつもない部屋の設え、挨拶の文句は巧みでなく、訪問は決まって月光の差す夜更け。この男は一体ここへ何をしに来た? 別の目的があったのではないかと今更ながらに思い至り、温とい気配は急速に冷え込む。不自然を訝かしむリロイは伸ばされた手に気付かなかった。温かい腕が回され、自分のものより幾分か色の濃い肌が視界に入る。異国の美丈夫は、肌を覆う薄膜を剥がそうとした。リロイは手に触れ、閨衣装を外させる無作法を咎めようと顔を上げた。藤色の瞳を見ることは適わない。ひゅっと風切り音が鳴れば、目の前にあった首はごろりと床へ落ちた。


一歩向こうに鎧を着た無貌の男が立っていた。液汁のしたたる傷口は苦く臭う。顔を温かく濡らすのは涙だろうか。落ちた首は転がり落ちて闇に消え、顔を持つ者はリロイただひとりになった。立ち尽くす兜と見つめ合ったまま、何かをいわねば、と思った。でも何を? そうだ、寿ぐものは何もない。目の前の鎧武者を確かめ、尊んでやれる言葉など一つだって持ち合わせていない。自失から動けないでいると、鎧の男は音もなく歩み寄って跪く。隙間から僅かに覗いた目は何ごとか訴えかけているようだった。リロイはまなこを見返した。夢の終わりが近かった。せめて何か言ってやらねばと考えたリロイは、相手の装備に目を留め『纏う鎧の精巧にあなたを認め、讃えよう』と言った。ガントレットの手が恭しく指を握り、額を預ける挨拶をした。それは自分が謁見の間で女王に敬意を示すときの仕草だった。


天蓋を透かす光に目を開き、跳ねた鼓動を落ち着ける。眩む視界も慣れてみれば、それは穏やかな午後の光だ。警戒しつつ順応を待てば、生臭いような薄緑の染みが横たわる者のいない臥所を染めていた。枕元には羽切り鋏。べったりとかかるのはニンフの体液か。手を見れば、抜き身のまま握られているのは自身の剣だ。床に転がる鞘の文様が記憶にある鎧の意匠と一致する。気付いたリロイは一言感謝を述べ、剣を己の血で清めた。



傷口を手当てし、リロイは寝台の端に腰を下ろす。昼夜の切り替えに眠りは浅く、目覚めた頭も万全とは言い難い。だが、どうやら夢とそれ以外の区別はつくようになってきたようだ。微睡むような午後の光に照らされて、疲れたなと思う。天幕の中で何度も交わり、指を絡ませてきた。その指に手袋のないこと、指輪の一つもはまっていないことを、リロイは意識に登らせる。甘い交わりの形を取るそれも、思えばどこか不自然だ。挨拶の文句などは色事に疎い自分が聞いても酷いもので、いくらこちらに覚えがあるとはいえ慣れない手足を相手にすれば動きはどうしたって覚束なくなる。そのこともこの深い疲労感の原因だろう。だが、全ては結果論だ。夢の中の自分はそれに気づきもせず、あまつさえ自分の剣に助けられる始末で、対処の悪さには失望を禁じ得ない。深く嘆息し、リロイは闇の中で光る銀の飾りを思う。手袋もなく伸びた指先が闇のあわいに呼ぶとするなら、意識に登るのはカチカチと誘う二十三余りの指輪だった。忘れたいような記憶が意図せず深くから呼び起こされてきて、そのこともとかく腹に据えかねた。

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