白樺屋敷-2(渇望する影と夢について)

「『虹の香を持って行け。白く閉ざされた雪の中だ、兄に言われただろう?』」

無人の廊下に突然響いたのは齢十三の少年女王、ディアナの声だった。急になんだ、とヴィクターが訊ねるより前にディアナは足を止め、連れていた銀の獣、狩猟剣のドゴと共に傍へ寄った。

「今の声はヴィクターか? ……よく聞いていなかった。重要なことであったならすまない。もう一度言ってはくれないか?」

話していたのは俺じゃない、と言いかけたヴィクターは思い直して首を振った。女王の未来視は役に立たないが正確だ。そしてこの言い方、誰にとってかは知らないが重要な話だったと見える。

「……いいや、たいした話じゃない。というかおまえに向けた話じゃなかった。独り言だよ」

「そうか。正しいみたいだね、ならいいんだ」

わざと対象の曖昧な言い方をすれば、ディアナは頷いて去る。ヴィクターはぐるっと振り返り、廊下の無人を確かめる。予言は独り言の性質を帯び、言葉はディアナに向けたものではない。場に誰もいないとなれば、あれはつまり俺に対しての注意喚起だ。虹の香、白く閉ざされた。兄に言われただろう。嫌な気持ちこそしたが、それでも言われた通り、自分の知る香と名のつく物品全てから、虹の要素のあるものを寄って揃えた。



それがまさかこんなことになるとは。不可解な結界の中、ヴィクターは特別の紙片を指に挟み、空いた手で湿気たマッチをガシガシと擦る。どうにか紙片へ火を移し、ため息交じりに悪態をつく。燃えるそれを手袋の中でもみ消せば、ヤニの匂いと白い煙が部屋に広がった。虹模様が出るその前に、腰を落ち着けて鞘付きの剣を胸に抱く。瞑想するように息を吸い、ゆっくりと吐く。深く、深く、深く。時間感覚は歪む。一秒は一時間に。一時間は一夜に、一瞬の隙間は引き延ばされて永遠へと変わりゆく。ヴィクターは棚引く煙に導かれる。蕩けたような空間を床の下あたりまで降りて、突き当たった底へぬるりと入り込み、緩やかな着地を待った。濃淡のある煙がじっとりと空虚にとぐろを巻く。知覚は開いた。目は開き、扉は開き、視界は啓けゆく。中心に降り立つヴィクターは床を踏む。煙が床を撫でた。早く館の主を見つけねばならない。引き延ばされ続ける時間の中で靴を鳴らし、ヴィクターは確信を持って歩き出す。



靄の中を行く。微睡むような結界の中は重層的な広がりを持ち、煤けたような空間は異常。縦横に湾曲する手すりを掴み、吹き抜けを渡る片持ちの廊下を上がる。現われた扉をくぐれば部屋の中には見知った姿の男が一人。横たわり、眠っている。そう、ここは眠りの国。はぐれた相棒をその中で見つけた。……本当に? 艶やかで長い髪、高い身長、顔は陰になっているが、別段おかしな所はない。腹に手をつけ、横たわる男を揺り起こす。

「……探したぜ、どこにいる? 情報共有といこうじゃないか」

「戻ってきたのか。ここはひどい場所だが、おれといれば苦労はさせない」

迷いなく返された言葉に一瞬、思考が止まった。噛み合わぬ会話と、低く枯れたような声、それから奇怪な発音だ。ヴィクターは顔を隠し、即座に部屋を離れた。旧アレス領の生まれであるリロイが、アスター統治領の古い訛りで話す謂われはない。暗い靄の中を目覚めに向かってざぶざぶと走る。時折、孔雀色のチリが立ち、ヴィクターの身体を汚した。追われてはいない。見つかってこそいないが、視線がときおり背を掠めるのがわかる。目鼻を覆って壁に飛び込めば、ぬるい飴じみてどぷりと身体が沈み込む。通り抜けた壁からべっと吐き出されれば、そこは現実だ。



手に触れたのは柔らかな脂肪の層。女の体だ、と目覚めたヴィクターは思う。枕にしていた腹から頭を上げ、あたりを探ってふと、捕まったのか、と気がつく。夢の中からは確かに抜け出した、なればこれは夢魔の見せる幻覚であろう。不可解な空間は鱗粉の毒によるものかとも思ったが、それにしては指向性がやや強い向きがある。ヴィクターは暗い天蓋に背を向け、部屋の中を回った。小さかった寝台は無限にも等しい広がりを持つ。鍵になるものは見当たらず、暗い部屋にはなにもない。空の篭、蓋のされた水瓶、閉ざされた窓。カーテンを捲れば、窓の外は塗りつぶしたような黒。星の灯りもない真の闇だ。ヴィクターは手を放し、寝台に体を預けた。ここは箱庭の中だ。条件を満たさねば出ることも叶わぬ魔術結界の懐。とんでもないところに来てしまったものだ、と考える。否、だからこそ自分たちが呼ばれたのだ。前線を退いて長いリロイまでもが引っ張り出されたのにはわけがある。


もっとも、リロイ本人はどうにも納得していないようであったが。ヴィクターは片目を瞑った。部屋に変化は無く、瞼の裏は暗いばかり。見慣れたような腕と胸筋に乗った二つの膨らみへ目を戻す。張りのある乳房とまろみのある肩がロディアを思い出させたが、それが何かしらの感慨を連れてくることはなかった。まったく、忌々しいことこの上ない。それにしても、女の腹に目が覚めるなど、随分と悪意の色が濃い。ヴィクターは亡き母のことを考える。暗い中で顔は見えず、ここで懐かしさを覚えれば結界に飲まれるのだろう。指輪を介した記憶阻害というのは、どうしてまったく便利なものだ。


そこでふと気が付く。これが幻覚だとして、見ているのは誰だ? どう考えても錯乱で見る類の夢ではない。思考は借り物じみてずっと明瞭だ。であれば、意識を読み取られている。あるいは侵入を許した。誰に?


行方不明者を探せとの命でここへきたが、結界以外にも何か秘密があるのかもしれなかった。悪戯な妖精を両断する羽切り鋏は手の中にあるが、結界のほころびを探り当てるには足りない。シーツの海に枕。眠るのには不自由しないなと思っていると、急に鼻の奥がツキツキと痛んだ。脳が過負荷を訴えていると気づき、慌てて板張りの床へチョークで陣を書き付ける。寝台からシーツを巻き取り、四角く描かれた魔術紋結界の中心に寝そべって意識を落とした。



まず思ったのは、随分と眠った、ということだ。背に感じる滑らかなシーツと、脇腹をなでる手の気配でいちどきに目が覚める。起き上がって見下ろせば、着衣や装身具の一切を取り払った素のままの格好が目に入る。禁術の品を含む二十三余りの指輪は手から消えていた。わかるのはこれがよくできた幻覚だということだ。しかしどうなっている? 外部干渉を避ける紋を刻んだと思ったが、あちらが夢だったのか? 胸を触れば薄いながらも乳房があり、身に纏うのはこの重い暗闇一つだけ。ヴィクターは気配を追った。この手を知っている、と思う。この温度を知っている。目を凝らせば、身を寄せる相手には見覚えがある。長く伸びた癖のない金髪と、闇の中にあってなお輝くような白い肌。想像よりも太い腕がヴィクターを捉え、力強く抱きよせた。流れる髪が肌を粟立たせ、おでましだ、と思う。しっかりした指に指輪はなく、肩を滑る髪は記憶にあるよりずっと長い。長すぎるくらいだ。倍ほどもある重たい金髪はどろんと揺れて体にかかる。ぞくぞくと身を駆け上がる震えは根源的な恐怖だろうか。それとも? 人目を引く容姿を持つことは知っていた。だが、こうして見上げれば実感は重く、考える毎に金糸の髪は益々その輝きを増したようも思える。


映し出される全ては夢魔のもたらす幻覚だ。女の体を持つことさえ自身の本意ではない。そんなものは確かめるまでもなく自明のことだ。しかし、この不安定な夢のなかにいるヴィクターは、目の前にある髪の束へ触れたいと確かに思った。思ってしまった。それさえ夢の筋書きか。だがそれは承服しかねる。両足で腹を蹴り、飛びのいて体勢を整えた。シーツを埋める金の髪を踏んだ足が、体重を乗せると同時に滑る。靴ならば避けられただろうに! 思えど、状況は変わらない。転がって衝撃を避け、一目散に逃げる。白い地平に端はなく、迫る金色は奔流と呼ぶにふさわしい。逃げなければ。でもどこへ? 人間ひとり寝台へ縫い止めておこうというのに、毛皮の一枚も用意がないとはとんだ『もてなし』だ。おかげでどこにも隠れられない。走り続けていると足の裏が奇妙に痛んだ。ここはどこだ? 黄金に光る天蓋を見上げれば、垂れ落ちる髪の房は同じ色だ。ヴィクターは驚き、生じた隙が襲撃を許した。背後を取られれば、押さえつけられるのに時間はかからなかった。


もがけども指はただ布肌を掻くだけだ。頭へ手が伸び、指が入ってくる。頭蓋をなぞる手つきには段々と遠慮がなくなって、混ぜ返すたび目玉が裏から動かされるような心地がする。そぎ落とされたような股の奥がどうなっているのか感触こそないがしれたことで、そのことが殊更に心を苛立たせる。張った腕や硬い腹には傷や継ぎ目のひとつだってない。覆い被さってくる体はヴィクターをシーツのあわいへ閉じ込める。他に何ができる? 抵抗も甲斐なく、微かな息が耳を撫でた。せめて文句の一つでも言おうと口を開けば、背後から迫る髪の束はざあっと黒へ変化した。



濁った絶叫が聞こえて、ヴィクターは跳ね起きた。剣を抜けば床は軋み、誰かいるのかと叫ぼうとして息を吸えば声は止む。そこでヴィクターはようやく叫びの出所に気が付いた。床に書かれた簡易結界紋には多数で踏みにじったような痕。顔にひきつれがあると思って鏡を出せば垂れた鼻血が顔の半分を染め、孔雀色の鱗粉が星のように散っていた。夢の内容を思い出し、ハンカチで入念にこすり落とす。顔を上げれば凹んだ寝台の上はじっとりと緑に濡れていた。垂れ落ちたような痕が掛け布や床を染め、柱の根元まで転々と続く。ヴィクターは口を引き結び、身支度を調える。着ていたはずのマントがどこを探しても見当たらず、取られたな、と直感する。夢の中で出会った人間は金の髪だった。ならば、あれがこの忌々しい夢の主なのだろう。鞘を拾い上げたヴィクターは剣を正しく収めた。そうして、いつでも抜けるように角度を確かめて、こぼれた体液の痕を追う。触れた感触のない壁をすり抜ければ、無人の部屋には鱗粉の孔雀色が空々しく散った。

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