林に潜む怪異の話

白樺屋敷-1(木漏れ日の末端について)

気付けば見知らぬ部屋の中だ。差し込む午後の光と涼やかな空気にリロイはどうしたものかと思案する。窓枠に収まるのは柔らかな萌黄と白い幹。幅木を備えた淡い塗り壁は、まろみのある板張りの床へ続く。標準的なしつらえに、おかしな事はひとつもない。この空間において、排除されるべき異物はリロイのみだ。膝までのコートと布も巻かれぬ鞘付きの剣、それから砂っぽいブーツ。掃除の行き届いた室内で、ひときわ場違いに立ち尽くすリロイは魔術遺跡の調査隊だった。数年ぶりに依頼が舞い込み、怪物が潜むという白樺の森に来てみればこの通り。不可視の檻にリロイは足止めされている。


随伴していたヴィクターも今はない。無人の部屋はしかし、知れず監視を受けるような違和感がある。篭盛りの果物は色よく、戸棚にはパンがいくつか。水瓶にも新鮮な水が満ちていた。よくよく整えられた室内の、均整の取れた配置は静物画にも似てどうにも作り物じみている。居室を出れば居間があり、廊下へ続く扉がある。施錠された扉から覗く『先』は闇に沈む。


リロイは部屋の中を検分した。つかえて開かない引き出しに、はめ殺しの窓。篭の葡萄や柑橘は毒のある種類のものではなく、寝床は奇妙なまでに清潔だ。窓へスツールをぶつけるが、ガラスにはひびの一つも入らない。策の尽きたリロイは起こしたスツールに腰掛け、窓の外、絵画のような景色を眺めた。経過時間を思えばとうに日は落ちる頃合いだというのに、光の差す樹林はいつまでも不自然に明るい。変化もなく、入りこむこと適わず、ただそこにあって目を慰めるだけの景観。視線の先で風が葉を揺らしたが、僅かにぶれる動きも反復でしかない。ここが一体なんであろうと、疲れた身体は休めねばならぬ。ため息と共に部屋の寝台へ座り直し、取り出した鋏を枕元へ置く。足を床につけたまま陽光のにおいのするシーツへ身体を預け、外した剣を抱える。見上げる天蓋はモンスの様式だ。重ねたレースの幕が作る木陰様の薄闇で瞼を降ろせば、眠りはすぐにやってきた。



冷えた空気が頬を撫で、無音の暗闇に目が開く。日没を示す月明かりの白い影が落ち、窓掛けのない嵌め殺しの黒が際立った。一体どれほど時間が過ぎた? 身体を起こせば、傍らには横たわる影がある。そっと様子を伺えば、それは人の形をしていた。纏う鎧の造りは精巧。だが、触れれば冷たく、息は止まっている。何より面頬の下に顔がない。目覚めぬ男を見下ろして、リロイはしばし考える。これが誰かを知っている気がした。親しく、身近で、血を分けた同胞、そんな気配があった。しかし考えれど、条件に当たる者はない。部屋に差す光はいやに冷たく、見知ったような『誰か』は目覚めない。リロイは火を探すが、外套の懐へ伸ばしたはずの手はシャツ地を滑った。枕元を探れば杖が手にあたる。少し考え、何もないよりはと柄を握る。外の様子を伺い、リロイは差し込む月光を避けて寝台を出た。目覚めたとき、卓上の水差しを照らしていた月光のきわは今も傾かず、そこへ留まり続けていた。


移った部屋には明かりの一つもなかったが、明暗差が減ったために幾分か目が慣れた。居間の様子にも変化がある。あったものが消え、ないはずのものが現われた。剣はやはり見つからず、杖だと思っていたのは風見鶏の支柱だ。ガラスの壺は砂糖水だろうか。引き出しは手をかけた瞬間するすると開き、まっすぐな鍵を吐く。簡素な造りの鍵をみて、厄介なことになっている、とリロイは思う。扉の向こうから風が鳴り、風見鶏が僅かにキイキイと呼応した。廊下へ至る扉には覚えのない錠。リロイはしばしの逡巡の後、拾った鍵で外す。手を添えたまま開けば、ぬるい風が吹き込んで続く先を示唆した。塗りつぶしたような暗闇に、マッチやコートや剣の不在が重くのし掛る。これを進めるのは夜目の利く相方以外にあり得ない。だから錠は外しておいた。夜は明けず、扉を叩くものもない。リロイは寝台に座り、誰かの訪れをただ待った。動かない鎧と一人分の呼吸音。枕元の風見鶏は静かに闇を見る。



眠りがもたらす断絶が、変化なき室の夜明けと日没を転換させる。リロイは眠り、目覚め、また、目覚めのなかで浅い休息を得た。果てのない繰り返しが神経を摩耗させる。昼の部屋は清潔で、不自由しないだけの食料があった。果物は口を潤し、柔らかいパンの味わいは収穫の喜びにも似ている。だが、窓の向こうで揺れる木々に変化はなく、眠らなければここはずっと昼のままだ。足止めを受けたまま、どれほど経っただろうか。静かな部屋に訪れる誰かの気配はない。食事を摂るごとに体は甘くにおった。危険なのは言うまでもない。だが、温かな日差しに危機感は輪郭をなくし、状況の切迫とは裏腹に心は凪いだ。時間経過の響かない身の上だ。なれば、急ぐ理由だってない。長い滞在を白樺屋敷は許すだろう。


停滞、諦念、停止、死。長じた魔術士であるリロイは、陽光の中の立ち往生が正しい選択でないと知っている。手袋と髪留めを抜き、手櫛で髪を梳く。強く引けばおびただしい量の毛が落ち、過ぎた時間を暗に示した。絡めた髪を手に集め、指のさきと繋げていちどきに練り上げた。爪のきわから不格好に垂れた肉塊を結紮してから切り離す。指先の出血を手当てして、切った肉は手持ちの炉で焼く。煙は臭く、血抜きもされない水っぽい肉は埃の味がした。リロイはじゃぶじゃぶと口を汚しながら硬い肉を食む。異形の屋敷に取り込まれたものの末路など知れたことで、それに甘んじる気は毛のさきほどもない。腹に入れた合成肉は毛髪の形で現世から持ち込んだものだ。非道徳を見咎められないことが今はただありがたく、口を拭ったリロイはどこかで同じように捕まっているであろうヴィクターを思う。



事の発端は簡単なことだ。旧アレス領の北西、白樺の森に失踪者複数との通報があった。天然林のある区画では様々の理由で帰らぬものが出る。だが、この区域では長年にわたり定期的に、決まって若い男女が消えるとのことだった。不審な失踪。力の及ぶ場所に危険があってはならないと女王アルゴスは判断したようで、この決定を中央議会は重く捉えた。そうしてリロイとヴィクターの二人が派遣されることになった。だが、各地議会の魔術士を差し置いての人員選定はリロイに疑心を抱かせた。


今なら、おかしな事はなかったとわかる。内政の一端を担っている自分がわざわざ現地に呼ばれたことや、こうしてヴィクターと二人で派遣されたことも、アルゴスの計らいだったに違いない。リロイは道中、自分がこの人食いの森で不当に処分されるのではないかとこぼした。ヴィクターは不信をいさめたが、リロイの側には思い当たることがあった。籍は議会にあるものの、すでに前線を退いて魔術士の職は後続に任せた身だ。内地で各地の領主を取り持っているが、古い時代からの統治機序は今もなお健在で、議会の介入を良く思わないものもいる。排除運動が起こるのも時間の問題だとわかっていた。後に生まれたものが年老い死んでいくのに、自分がいつまでも椅子を譲らないままではいけない。後進の育成を務めるヴィクターと違い、自分の受け持ちは過去の経歴に頼ってこなしているに過ぎなかった。分水嶺もとうに過ぎて、世に馴染むには遅すぎる。ここらが潮時かとさえ思った。だが実際来てみれば森は深く、怪異は実在している。目を開けたリロイは暗闇に目を凝らし、歳をとると卑屈になってかなわないな、と思う。あるいは今の境遇に不満があるのかもしれなかった。まつりごとというのは難儀な仕事だ。それは理外の相手に剣をとる、魔術士の務めよりも格段に。



扉が薄く開き、浅い眠りから覚めたリロイは待ち望んだ『訪れ』を知る。再会の喜びは胸を温め、暗い部屋に風を呼ぶ。だが、知っていたはずだ。不審に思ってしかるべきだ。月の光のもとに誘い出すような動きを取ったことを、喧しく開けっぴろげで迷惑なあの男が声もなく現われることなどなかったことを。

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