白樺屋敷-裏(皮膚を食む口吻について)

男の名前はヤナギと言った。スミレを摘みに出た森の中で妖精の女に見初められ、この白く殺風景な屋敷へ花婿として連れてこられたのだ。この浅い緑と光の宮に、もてなされこそしたが結婚は上手く行かなかった。男が女を殺したからだ。甘やかに口づける女は群れを統べる女王蜂で、外界から持ち込まれた身体は生まれ来る子のための養分であり、幼子を温めるためのおくるみでもあった。それを知った男は、身を捩ってのしかかる女の頭へ、唯一の持ち物であった道具鞄を打ち下ろした。母になるはずだった女は腹の上で死に、戻らない。それから男の暮らしは一変した。


よすがであった女は頭を潰され死んだ。自由になった男はしかし、巣と外界を隔てる結界に阻まれて、生まれた家にも帰れない。男には世話をみる相手が、群れには働き蜂であるニンフを統率する頭が必要だった。母の独占が印として腹に刻まれ、男としてはもはや役立たぬ身であったのは幸いか。男は自分に用意されていた寝床へと入り、亡骸からむしった翅で背を飾った。群れの長は身罷った。入ればそれきりの小さな桶が男を引き留めることもない。男は死体を桶へと隠し、新たなる王として振る舞った。男の入っていた桶が、女王蜂の揺りかごだったこととの関係はわからない。だが、女王の服で身を飾り、ただひとり寝台から出てきた彼を拒むものは無かった。それからは男による仮初めの支配体制が敷かれ、背に翅が馴染む頃、彼は名実ともに王の後継者となっていた。



群れの長がいなくなったためか、働き蜂は時折森に迷い込んだ人間を連れてきた。群れのニンフはそれらと幾度も交わり、何人かの子を産んだ。だが、腹から出ても生き残る個体は稀だ。この巣は機能不全を起こしており、長く保たないことは明白だった。世代の脱落は上からゆっくり進行し、全滅までどれほどの猶予があるだろう。男は毎夜考えた。屋敷を出られず、人間の国へ戻ること適わない身の上。自分が殺し、自分を殺そうとした女のこと。滅亡へ傾く王国を再興し、己を長らえさせる施策について。


働き蜂は光を好み、水や宝石へ向かう。だが、時折舞い込む銅や鉄の装飾品の類いは気に入らないようで、それらは全て男のものとなった。指輪、腕輪、首飾り。銀の輪は婚姻を寿ぐ閨装飾を思わせる。支配の頂点に立つ男には、同族も後継者も対等な相手もいない。全てのニンフは彼の手足だ。婚姻とは他者との契約で、彼はただただひとりきりだ。使われる機会のないまま、宝飾品は積みあげられていった。


群れを維持するために産まれてくる子が必要だった。だが、母がいない。群れは僅かずつ規模を減らしていく。ある冬など食糧確保に手が回らなくなり、腹を空かせた働き蜂は出産で弱った個体を囓って食べた。男もそれに倣ったが、人間の口に鋸歯はない。鈍った丸い歯では用をなさず、男は仕方なしに固まった樹液や草の種、腐肉や蛆、砕いた骨を口にした。そのことは働き蜂の娘たちへ、彼を特別のものであると意識づけたようだった。本当にそうだろうか? 苦く曖昧な時間は過ぎ行くのみで、それらはけして戻らない。男はその日も獣を食べて剥いだ皮を寝台へ積み、潜り込んでは眠りについた。明日はもっと良くなるようにと願いながら。



ニンフの娘たちは光り物を好む。あるとき屋敷へレンズが流れ着き、それは偶然火を熾した。熱はいくらかの損害と変化をもたらす。男に人間であった頃を思い出させたのだ。彼は元々鍛冶屋をしていた。魔術に馴染み、特殊な剣を鍛えることができた。寝台につまれた金物の山と、それらを溶かす赤い炎。男がもつ妖精の王の側面が、これで新しい子をなせば良い、と言う。それは幾星霜を経てたどり着いた唯一の突破口だった。だが、尋常の剣では役目を果たさぬ。普通、新しく作られる剣は人ひとりの命と引き換えで、ここに替えられる命はない。男は頭を悩ませた。血の代わりとなるもの。特殊剣をあつらえるのにふさわしい材料は、やはり命のもとであろうと。


それからは、腹に傷のない男達を寄って、長らえさせるよう手をまわした。必要となる命のもとは娘たちが集めてきた。雑多な金物と燃えさかる炎、未成熟の個体や残った食べ物。長年続けた鍛冶の腕。持てる全てを合わせ、苦労の末に男は妖精剣を作り上げた。妖精剣、号はニンフ。剣は血を求め、啜ったぶんだけ成熟する。きっと完全な個体になるだろうという期待が男の胸を温めた。そうして娘のひとりに言いつけて、妖精剣を外へと運ばせた。内側に血を流せるものはいないから。契りを交わしては子を産む娘たちを真似るように、火と槌は剣を捏ね上げる。幾たびも、幾たびも。幸い、金物はたくさんあって材料には困らないようだった。飼われた個体は痩せていき、最後は彼らの腹に入った。火が尽き、レンズも失われた頃、精根尽き果てた男は自分の故郷のことも思い出さなくなっていた。


寝室の箱に残るのは欠けた指輪や曲がった王冠ばかりだ。妖精剣の帰りを待ち、怠惰に過ごす屋敷の主へ、働き蜂はひとりの女を連れてくる。森で迷ったのだろう娘は豊かな金の髪を持ち、はっきりと浮かび上がるような姿をしていた。一目見て衝撃を受けた。耳を震わす声というものは心地よく、ふっくりとした姿は現世に落ちる影ではない。陰を退ける身体は立体的で柔らかく、触れた端から世界の本当の姿というものを教えてくるようだ。それに女。同一種族の女だった。男の頭にあるのはいくつかの断片的な思い出と、群れの維持という責務のことだけだ。それでも、幾ばくかの郷愁は男に変化をもたらした。男は女に差し出すための甘い蜜を集めさせた。柔らかい肌が娘たちに囓られないよう傍につき、必要ならば寝物語や歌だってそらんじた。女の輝く髪のおかげで、日の陰る夜さえ恐ろしくはなかった。だが、楽しい暮らしも長くは続かない。ある朝眠りから覚めたとき、そこに女の姿はなかった。銀の腕輪が必要だと考えた矢先のことだった。最後の晩。女は男へと呼び名を聞いた。男は靄のかかった記憶の中を探ってから一言、『ヘアフォア』と答えた。


術士ヘアフォア。それが、今の彼の名前だった。

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