悪意に包まれて

次の日、空は昨日までの鬱憤を晴らすように晴れ渡っていた。


「よお、昨日はどうした?また二日酔いにでもなったのか?お前もだいぶ大学生らしくなったよな」


 午前の講義であった安雄は昨日、僕が大学に来なかったことを二日酔いで寝込んでいたと思っているようで、友人としての気安さでからかってきた。


「あ、ああ…まあな」


 そんな安雄に曖昧に返す。 昨日のことをどう説明したらいいのか悩んだのだ。


 悩みというよりも戸惑いという方が近いかもしれない。


 あまりにも突然とした出来事なので、上手く説明することができないのだ。


 それに昨日先輩と『しちゃった』と言えば、間違いなく根掘り葉掘り聞かれることは明白で、そのときの自分の格好悪さを話すことのほうが恥ずかしいという思いもあった。


 それにしても先輩はいったいどういうつもりなんだろう? やはりあの噂は本当だったんだろうか?

 

 そんな簡単に…あんなあっさりと…してしまうものなんだろうか?


 恋人どころか恋愛すらしたことのない僕はそうなるまでの当然のステップを何歩も抜かしてしまった昨日の出来事にいまだ混乱していた。


 あっ、そういえばファミレスで借りたお金、まだ返してなかった。 


 当然返さないと。 でもなあ、どう話しかけたらいいのだろう? いま顔を合わせてしまえば昨日のあの行為を思い出してしまって気後れしてしまうかも。


 いやでも借りたのなら返さないと…でもなあ…。 それでも…ああああ!

 

 いったいどうしたらいいんだよ! 

 

 そんなわけで今日は安雄に話しかけられては「ごめん、聞いてなかった」という言い訳を何度もすることになってしまった。




「…飯でもいこうや」


 肩を揺すられて、はじめてもう昼だと気づいた。 


「あ、ああ…そうだな」


「よし…行くぞ」


 教室を出ながらも僕はまだあれこれ考えていた。 そんな僕のことを察してか安雄はいつものような軽口をしないで、黙って一緒に歩いてくれている。


「…なあ、なにかあったのか?」


「いや…何も無いよ」

 

 道すがらに問いかける安雄に嘘で返す。 


 何かあったもんじゃないのだけれど、とても親友に言う気にはなれない。 というか誰であっても話せるような体験じゃない。 


 あの熱い吐息と暖かい体温に柔らかい身体。 そして我を忘れるような強烈な衝動。 


 思い出せば今だってカッと熱くなる。


 自分の中であれをどう処理したらいいのかすらわからないのだから。


 忘れるべきなんだろうか? それも難しい。 


 そんな自分を察してなのか安雄はそれ以上は聞いてこず、最近出たゲームやバイト先での話に切り替えてくれた。


 そのちょっとした気遣いが嬉しい。 そしてそんな安雄に嘘をついていることがまた心苦しかった。


 うん、悩むのはもうやめよう。 あれは野良犬にでも噛まれたと思うことにして、すぐに先輩にお金を返してしまおう。


 そしてそのあとのことはそのときに考えればいいや。


 そう決意した時にはもう食堂へ着いていた。


「やばいな、ゲキ混みだな。俺、席を探しておくから先に注文しておいてくれよ」


「ああ、わかったよ」


 返事を返すと安雄は座る場所を見つけるために離れていった。

 

 僕はというとポケットから財布を取りだして何を頼もうかと考え込んでいると、

  

「おはよう! 昨日はちゃんと暖かくして寝たの?」


「うわっ!せ、先輩」


 唐突に後ろから声をかけられてしまい思わず叫んでしまった。


「どうしたの?そんな急に驚いて…」


「い、いや…な、なんでもありません」


 ドギマギしている僕と違い、先輩はいつも通りだった。 いや先輩の『いつも』は知らないのだけれど、それでもあんなことをしておいて平静な先輩はいったいなんなんだろうか?


 これでは悩んでいた僕が馬鹿みたいじゃないか。


 そう思いながらも先輩の顔を真っ直ぐに見れない。 


 あの唐突な初体験と先輩の素肌の感触を思い出してしまい赤くなってしまうから だ。


 そんなまともに先輩の顔を見れていない理由を察したのか先輩がニヤリと笑って耳元に顔を近づけていく。


「昨日はごめんね?でもお互いに楽しめたでしょう?」


「えっ?そ、そんな…ことは…」


「あら、違ったの?私は楽しめたわよ…それなりにね」


「そ、そんな言い方…」


 あんまりな物言いにカッと顔が赤くなる。 


「別に馬鹿にしたわけじゃないから…ただ可愛くって…ね」


「僕はそんな可愛くないですよ」


 口に出してからしまったと思った。 これじゃあまりにもガキ過ぎる。


 先輩は別段不快には思っていないようでニコリと笑って、


「そういうところが可愛いって言うのよ」


 まいった。 言えば言うほどにドツボにはまってしまっている。


「あっ、そ、そういえば…って」


 会話の流れを変えようとしたところで唇に何かが触れてしまったので黙りこんでしまった。


 先輩が僕の唇に人差し指を当てているのだ。 

 

「駄目よ…私って同じ相手とは二回しないの、ごめんね」


 ……? 一瞬意味がわからなかったが、すぐに理解した。


「いや、そうじゃなくて…あっ、でも…その…嫌だったとかじゃなく…てですね」


 ああ! もう何を言ってるんだ! そんなことを言いたいんじゃないんだ!

 

 赤くなったり、頭を抱えたりをしている僕を見て先輩がクスクス笑い出しちゃってる。


「こ、これです…」


 差し出された物を見て、先輩がキョトンとした顔をする。


「なにこれ?」


「あっ…その、この間のファミレスの…えっ?」


 先輩の顔が強張っている。 ひどく不愉快なことがあったような…えっ?でもなんで? 


 僕が戸惑っていることに気づいたのか、はっとした先輩がすぐにまたニコリとした表情になって、


「ああ、別にいいのよ…先輩が後輩に奢るのなんて普通だしね」


「えっ?あっ…でも…」


「とりあえず話は終り?それじゃ私、次の講義があるから行くね」


 それだけ言うと手をヒラヒラさせながらその場を立ち去ってしまう。


 後に残された僕は札を出したまま固まっていて、そんな僕の背中から静雄が腕を回して乗っかってくる。


「なんだよ、お前いつのまに、あの塚原先輩と知り合いになったんだよ!っていうかそれよりも二回しないって…まさか…お前、俺よりも先に…」


「い、いや…その話は…また別に…」


「いいから話せよ!お前ガ俺よりも先に…あの塚原先輩と…くんずほぐれつ…」


 『今度はあいつか』     

 

 『またビッチ姫の男漁りね』


 嫌な言葉が耳に突き刺さった。 背中にゾクリとした悪寒が一拍遅れてやってくる。


 周囲を見渡せばヒソヒソとした話し声がしていて、その中心にいるのは僕ら…いや僕だ。


 食堂のあちらこちらでまるで生贄を見るように、罪人を見るように、少しの哀れみと侮蔑が混ざり合った嫌な視線。


 生まれて初めて味わうその冷たくも気持ち悪い様に吐き気がこみ上げてくる。


「おい…行くぞ」


 安雄が腕を掴んで僕を外へと引っ張っていれなければ自身の空っぽの内容物を吐き出していたところだろう。


 それでも粘つくような言葉の数々が僕の頭の中にこびりついて中々離れてくれなかった。




「……で、結局ヤったのか?」


「いきなりそれ、聞くのかよ」

 

 屋外の喫煙コーナーー。 昼休みが始まった直後とあって人は居なかった。


「そりゃ聞くだろ、だって男の子だもん!」

 

 煙草に火をつけた安雄がそうおどける。


「…んで、どうなのよ?」


「…そりゃ、した…といえばしたけど…」


「お~、マジか…やっぱあの噂は本当だったのか」


「でもしたって言っても、別に僕はそんなつもりは…」


「…でもヤったんだろ?」


「……まあ」


 僕の知識が間違ってなければ『した』ということは間違いないだろう。 


 とはいえあれを『した』と言えるのだろうか? 


 あんな…半ば…無理矢理…。 


「いや、しただろ」


「そんなあっさりと!」


 狼狽する僕を知り目に安雄は一口、煙草を吸う。


「あのなあ、ヤっちまったもんはしょうがねえだろ、素直にヤッたー!って喜んでおけよ」


「…いや、…そりゃそうだけど…」


「まあ…それよりもだな…」


 吸い終わった煙草を灰皿で押しつぶしながら安雄が真剣な顔になる。


「予想以上だったな…あの反応は…」


「ああ…確かに…ね」


 塚原先輩の悪名は知っていた。 とはいえ食堂のあの様子を見てみると、それ以上にあの人は嫌われているようだ。


「…まあ、同姓に嫌われるってのはわかるけれど、ヒソヒソしてた奴らに男も混じってたよな」


 確かにそうだ。 あの飲み会の時から先輩は同姓から嫌われていた。


 それは確かに理解は出来る。 


 同じ女性から見れば先輩は軽蔑の対象にも思えるだろう。

     

 もしかしたら異性である男から見ても…?


 でもそれだけではないような…。 


 あの食堂でのことを考えると、何かもっと違うような…。 そう、単純な好奇や性的ふしだらに対する憤りとは違うような。


 もっと根の深い、ドロドロとしたような感情が。


 違うといえば…あの時の先輩。 ファミレスの時の代金を渡そうとした時のあの顔は一体?


「ほら、お前も吸えよ」


 そう言って安雄が吸い差しの一服を僕に差し出してくる。


「ありがとう…けほっ、やっぱり不味い」


 それはきっと安雄なりに気をつかってくれだのだろう。 そんな少し不器用な彼の優しさに答えたくて受け取って一口吸うが、やっぱり煙草は不味い。


 むせ返って涙目の僕を安雄はひとしきり笑った後に煙草の箱をポケットにしまう。


「そうだ、飲みに行こうぜ、おごってやるよ…お前の童貞卒業記念、んでもって俺にもおごれよ?」


「は?なんでだよ」


 当然の如く返す僕に彼はいつもと同じ屈託なく笑うと、 


「決まってるだろ? 親友に置いてけぼりにされた俺への侘びだよ」

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