先輩に奪われて

 翌日、激しい頭痛で目が覚めた。


「痛え~っ、もう朝か」


 時計を確認するとベッドから起き上がって台所に進む。 水をコップに注ぎ、一息に飲んだ。


 あれからどうしたんだっけ? 


 分解しきれないアルコールの作用と頭痛によって足がふらつく。 


 そのまま布団まで行って倒れこむ。 ゆっくりと昨日のことを思い出そうとした。


 そうだった。 確かあの後に、先輩に寄ってくるゼミ生達のついでに僕にも話しかけられ、次々と酒を注がれたのだ。

 

 先輩からの酌にその場の空気を呼んで無理矢理にそれらを飲み込んだのだ。


 そしてあっさりと撃沈。 おぼろげな記憶では先輩は終了間際に帰っていったように思える。


「何なんだろうな…あの人…痛っ!」


 先輩のことを考えようとしたが頭が痛い。 まるで両側から押さえ込まれているかのようだ。 ギリギリとする。


「まあいいや、午前中は必修は無いし、もう少し休んでからいこう」


 そしてそのままベッドで横になっていた。


 やっと胸のむかつきと頭の痛みがマシになってきたのは昼を過ぎてからだった。


 体調は良くないが、なんとか準備をしてアパートの玄関を開けると、フワリと濡れたアスファルトの匂いがした。


「雨か…ますます億劫だな~」


 そう愚痴りながら、玄関口に差していた傘を持って僕は部屋を出た。





 家を出た頃にはやや小雨だった雨は、駅を出て大学に付く頃には本降りになっていた。


 傘を差していても不思議にズボンの裾やシャツの肩口は濡れていて、それらが不快なのとやはりよろしくない体調もあって、まっすぐ教室に向かう気にはなれない。


 ふと朝から何も食べていなかったことを思い出した。 

 

 腹の虫がコロコロと鳴くことによって空腹を察した僕は教室のある校舎ではなく、食堂のあるサークル棟へと足を運ぶことにする。


 まずは軽く腹ごしらえをしてから教室に向かうとしよう。 


 サークル棟内にある食堂は昼を大分過ぎていたからか、客はまだらで、食堂のおばさんたちもゆったりとした雰囲気で談笑をしていた。

 

 食券を買うためにポケットをまさぐった僕は致命的なミスに気づく。


 財布を忘れていたのだ。 もっとも財布があったとしても仕送り前なので素うどんくらいしか食べられなかったのだけれど。


 とはいえ食べられないとわかり、僕の腹の虫はすでに反乱を起こすようにますます強く『泣く』。


 それでもしょうがない。 必修講義を終えてから一端、家に帰ろう。


 安雄に金を借りるという手もあるかもしれないが、友人からの金の貸し借りは自分が貸すのならともかく借りるのは抵抗があった。


 ここも僕の青臭いところなのかもしれないなとは思う。 


 二階にある食堂から階段を降りていて、入り口に誰かが佇んでいるのを見た。


 内心、気まずいなと僕は思った。

  

 なぜならサークル棟の入り口で少し濡れたコートを着てぼうっと空を見上げているのは塚原先輩その人だったからだ。


 別に僕が彼女に何かしたわけでも何かされたわけでもない。 


 ただ先日のある種の悪口にも思える噂と飲み会で見ることになった好奇と軽蔑の対象者がそこにいたことになぜかはわからない気まずさが僕にはあった。


 顔を見ないように、その横を通り抜けようとして後ろから声をかけられた。


「あら、昨日の新入生じゃない、あれから大丈夫だった?」


 声をかけられてしまっては無視するわけにもいかないのでぎこちなく振り返って、


「ええ、もう大丈夫で…す…よ」


 僕の発する返事が誰かに操作されたかのようにこま切れになった。


「なあに、どうしたの?」


 僅かに舌足らずでやや紅潮した肌をした先輩は少しとろんとした瞳でその手に持った缶ビールの飲み口に口をつけながら僕を見る。


「昼間からお酒ですか?」

 

 言った途端、しまったと思った。 さすがにこの言葉はぶしつけだ。


 ましてや先輩であるし、そして噂に上がるような有名な先輩に対して。


 先輩は少しだけ驚いたように目を丸くしていたが、やがて何が面白いのか唇の端をゆっくりとあげて笑いながら、


「ええ、昼間からお酒ですよ…問題あるかしら?」


「い、いいえ…すいません、ちょっと驚いたもので」


 そう返すしかなかった。 そのまま僕の顔も先輩に負けないくらいに赤くなっていく。


 それは羞恥で、なんというか、もっと言うこととか気づかないふりでもしていればいいじゃないかという僕自身の無神経さに恥ずかしくなったのだ。


「ずいぶんと遅い昼食ね…二日酔いになった?」


「え、ええ…まあそんな感じで…」

 

 しどろもどろに答える僕を先輩は微笑を浮かべながらまた缶ビールを一口あおる。 

 グー、キュルルルル。


 互いに黙りあった沈黙の瞬間に、タイミング悪く僕のお腹が鳴った。 ますます顔面に血が集まる。


「お腹…すいてるの?」


「え、ええ…まあ、ちょっと財布忘れて…きまして」


 こんな状況で嘘をついてもしょうがない。 


 内心、この場から早く走り去りたい衝動が全身に湧くけれど、このまま逃げるのも失礼だ。 


 ああこんなことならまっすぐ教室へ向かえばよかった。 いや部屋を出る際にちゃんと確認していれば…いっそのこと今日は部屋にいれば…。


 恥と後悔でまだ二日酔いが残った頭でグルグルとそんなことを考えていると、先輩は、


「ふーん、それじゃお姉さんが奢ってあげるよ」


 意外なことを言った。 


「い、いや…そういうわけには…」


「でもお腹すいてるんでしょ?私も一人で食べるのも…あれだったからさ、付き合ってよ」


 そう言うと先輩は飲んでいた缶ビールを全て一気に飲み干して傍にあったゴミ箱に放り込むと僕の手を取ってズンズンと引っ張っていく。


 そこまでされて抵抗できるだろうか?  ただでさえ、失礼なことを言って、そして目の前でこんな失態を見られている以上。 


 僕に残された選択肢は一つだけだ。


「わかりました…付き合います」




 ユラユラとした足取りの先輩はサークル棟ではなく、そのまま校外へとでていってしまった。 


 ええ、学食じゃないの? 


 とまどいつつも、何も言えずにただついていく。 


 先輩は腰まである黒髪を背中で揺らしながら、すでに大分酔いが回ってるのだろうか? その歩く姿は危なっかしい。


 でもそのわりには足早に進んでいくので僕もまるで小さな子供が母親についてくように忙しなく追いかけていけば先輩は大学近くのファミレスへと入った。


 そして昼間のこの時間帯では珍しくない年配の店員さんに「二名で」と告げ、案内された席に座る。


「うん?座らないの?」


 立ち尽くす僕の方をひょいっと見て、促してくる。

 

 僕は抵抗すら出来ない。 ただ黙って居心地悪そうに先輩の対面に座り込んだ。


「学食じゃないんですか?」


 なぜか内緒話をするように小さく抑えた声で問いかけると、


「学食じゃお酒飲めないでしょ?」


 キョトンとした顔でそう返す。 何を言ってるのといわんばかりだ。


「ぼ、僕…いや、自分は飲む気は無いですよ」


 当然だ。 この後に講義があるのだから。 というか昼間から酒を飲むという行為自体がありえない。 

  

 休日ならともかく。 確かに安雄なんかは先日、先輩の家で飲んでてそのまま休んだとは言っていたことはあるけれど。


「あなたが飲まなくても私は飲みたい。私が奢るんだから私が行きたい店を選ぶ…これって変じゃないでしょ?」


 変ではないけれど、おかしい。 いやそこまでじゃないか? 確かにそんなことをするのも大学生らしいと言えばらしいような…でも…いや、それにしても…、


「ほら、食べるもの早く選んじゃいなさい。あまり高いのは駄目だけどね」


 先輩はすでに頼んでいた生ビールが来てゴキゲンなのか、僕の前にメニューを滑らして注文を急かす。

 

 すでに店員さんを呼んでいて、注文を待っているという状況が僕を焦らせる。 


「そ、それじゃこのハンバーグランチを」


「んっ、それじゃそれとたらこスパゲティ一つでお願いします」


「かしこまりました、ご注文をくりかえさせていただきます」

 

 律儀に注文を繰り返す年配の店員さんの言葉を傍目にそっと先輩の顔を見る。


 春物の薄いコートを抜いだ先輩は黒のTシャツとスラリとしたデニムのジーンズでうっすらと化粧をしていた。 


 少し切れ長の瞳と、形よく整えられた眉に細面の頬はまたうっすらと桜色をしている。

 

「ごめんなさい、メールがきたわ」


 ゴソゴソとバッグからケースを取り出してその中から眼鏡を取り出す。 黒いふちで包まれたそれをかけてから携帯をポケットから取り出す。


「普段は裸眼なの、コンタクトもたまにはするけど手入れが億劫なのよ、眼鏡の方が楽なのよね」


 メールを読みながらそう説明する先輩に、釘付けになりながら、


「はあ、そうなんですか」

 

 とだけ返すのが精一杯だった。


 注文は比較的早く来た。 おそらくはレンジで暖めるかあるいは加工済みで焼くだけの代物なのだろう。 間が持たないことを考えるとこれはありがたかった。


 なんにしても腹が減っていることは確かだ。 それはもう一人だったのならかぶりつきたくなるほどに…。

 

 でも今日は一人じゃない、そしてここの支払いは先輩持ちなのだ。 ならばしなければならない行動が一つある。


「そ、その…いただきます」


 ペコリと頭を下げた僕に先輩はポカンとした顔で眼鏡越しに僕を見つめる。 


 メールは返事を返すほどのことではなかったようで、すでにポケットにしまわれていた。


「律儀ね…。本当に年下?」


「お、お金を出してもらうならと、当然ですよ」


 まだこの状況に慣れていないせいか、声は上ずっている。


 それでもまだ僕を見つめる先輩に気恥ずかしくてフォークを掴んでジュウジュウと音を立てているハンバーグを一口に切って口の中に入れた。


 先輩は自分の注文したタラコスパゲティが来てもしばらくは珍しそうに僕のことを見つめている。


 それが気恥ずかしいので顔を上げないで無心にハンバーグを食す。

  

 それをひとしきり見つめた後、先輩もタラコスパゲティをフォークで器用に絡めて口に運ぶ。


「…………」


「…………」


 無言だった。 互いに。 普段ならば気まずくてしょうがないだろうけれど、いまの僕にはそれが僥倖で、むしろあれこれ話しかけられた方が辛かっただろう。


 男としては情けなくはあるけれど。


 これが安雄だったら、また違っただろう。 あの少しいい加減で、でも妙に気遣い屋のあいつだったら先輩とも何の忌憚もなく話せると思う。


『お前、何やってんの?女と来てダンマリかよ』


 あきれ顔でそう言う姿が思い浮かぶ。 だから僕はこのことを誰にも話さないと密かに決心した。


 たとえ友人だろうと親友、恋人であろうと秘密にすることはあるのだ。 


そう、きっと誰だってそうなのだ。




 ハンバーグランチを食べ終え、先輩が二杯目のビールを飲みながら、チラリと窓の外を見た。 釣られて僕も。


「雨、止まないね」


「…そうですね」


 席から少し離れた窓の向こう側では沢山の人が傘を差して歩いている。 中には何も差さないで小走りに駆けていく人も。


「いま携帯で見たらね、このまま夜まで降るそうよ……これからどうしようか?」


 ゴキュリと音を立ててビールを飲んだ先輩がこちらも見ないで言う。


 さて、どうしようか? 僕は皿の上に残ったブロッコリーをフォークでつつきながら考える。


 講義にはまだ多少の時間がある。 先輩はさすがに大学には行かないだろう。 

 

 こんだけ飲んでいればすぐに教授に見つかってどやされることは明白だ。


 けれどこの先輩ならそれくらいのことはやるかもしれない。 


 ふと千鳥足で教室に入ってくる先輩が飲み会のときのようなニコニコ顔で教室に入り、教授が顔を真っ赤にして怒る姿が想像できた。


 そのときになって、先輩と教授のどちらの顔の方が赤いんだろう?


 くだらない想像をして思わず笑いがこみ上げた。


「どうしたの?急に笑って…」


 先輩は訝しげでもなく、かといって不快そうでもない、少しニヤついた顔で僕に問いかける。


 なんだかそちらの方が飲み会のニコニコ顔よりも綺麗に見えた。


「いえ、なんでもないです。先輩は少しここで待っててもらえますか?いまから家に行って財布を取ってくるんで」


 僕の提案は意外だったのか、先輩はぎょっと驚いた顔をする。 


 なんだ、結構感情表現が豊かなんだな。


「別にいいわよ、私が奢るって言ったんだし、一人で食事するのも……だったしね」

 

 途中の言葉は聞こえなかった。 唇の動きから察するにもしかしたら寂しかったと言ったのかもしれない。


 でもまさか違うだろう。


 なんだかんだ先輩は美人だ。 性格も明るいし、美人を鼻にかけるようなことも言わない。 まだ少し会話をしただけだが、結構さっぱりとした性格にも思える。


 あの噂話もおそらくはデマか、あるいは事実を数倍ひどくしただけの中傷に近いものなのだろう。


「いえ、やっぱり先輩とはいえ女の人に奢ってもらうわけにはいきませんし、講義もそれからでも間に合いますから」


 立ち上がろうとした先輩が僕の手首を掴む。 華奢な身体つきとは反比例するように意外に強い。

  

 思わず僕が驚いて黙り込むと、


「それなら今からあなたの家に一緒に取りに行ったほうが無駄じゃないでしょう?」


 そういう先輩の目は何かギラリとしていて、有無を言わせない迫力があった。


 僕は戸惑い、何も答えられず、じっと先輩の瞳の奥で揺れる何かに吸い込まれたようにずっと見つめていた。




「ここなんですけど、少し待っててもらえますか?」


 アパートの部屋の前、途中のコンビニで買った傘を差しながら先輩を僕の家へと案内した。


「ええと…多分この辺に…違うか…それじゃ…ええと」


 よく考えてみたら、帰り道での記憶が無いのだから財布をどこに置いたのかなんてわからない。

 

 なかなか見つからなくて苛立ちがつのる。 いっそのことこのまま不貞寝したくもなる。


 それでもすぐそこに先輩が待っているという事実がなおも僕を焦らせた。


「まだ見つからない?」


「ええ…って、なんで入ってきてるんですか!」


 玄関口に先輩が立っていた。 


 傘でも守りきれなかったのか彼女の長くしなやかな髪の先からポタリと滴が靴の上に落ちる。


「濡れて寒いのよ、さすがに女の子を外で待たせるのはひどいんじゃない?」


「あっ、すいません…でも…だからって…その…えっ?」


 注意されたことに動揺して、さらに動揺することになった。

 

 先輩が僕の身体に抱きついてきたからだ。


「えっ…?先輩?…な、何を…うわっ!」


 そのまま体重をかけてくるので後ろに倒れてしまった。 冷たいフローリングの感触が混乱と驚きの感情で血が集合する表面を冷やす。


 それでも暖かい先輩の指先が僕の胸を、首を、そして頬に触れる。 触れられたところに血が集まって熱を帯びる。


「駄目よ…そんな簡単に家に人を上げちゃ、こうなるんだからね」


 飲み会やファミレスで見せたのとは違う妖艶な笑みをする先輩でそう言って自身の唇と僕の唇を重ねあせた。


 冷静でいられたのはそこまでだ。 自分でも不思議なくらいに僕は自身を制御しきれず、まるでそう決められていたかのように先輩を強く抱きしめていた。




「フゥー…急にごめんね、あなたが可愛くてさ」


 事を終えた後、僕は狭い廊下に横になって、先輩は少し色落ちした壁に背中を預けながら自分のバッグから煙草を取り出して火をつけて吸った。


「い、いえ…」


 その仕草がとても美しく見えて、信じられないくらい突飛な行動も忘れて僕はボンヤリと見とれていた。   


 仰向けに転がった僕のすぐ横では乱暴に脱ぎ捨てられた服が少しだけ湿っていて、それが雨に濡れたせいなのか、それとも違う理由でそうなっていたのかはわからない。  


「雨も弱くなってきたみたいね、それじゃ…また大学で…あっ、いつまでもそうしてると風邪ひくわよ?」


 一本だけ煙草を吸い終えると先輩はすばやく身支度を整えてあっさりと玄関から出て行った。


 あとに残されたのはジットリと汗が滲んだ表面と板張りの廊下の間で、いまだ半裸の僕だけが居た。


 ああ、講義…もう終わっちゃってるな。


 残る残滓の中でこんなことを冷静に考えている自分に驚いてしまった。

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