野良犬に噛まれたと思って

「…あたま、いてぇー…」


 昨日はあの後、安雄とひたすら飲んだくれていた。


 どれほど飲んだのかすら覚えていない。


 ひどい二日酔いと頭痛で目が覚めたときには部屋の中はアルコール臭で満たされていて、それだけでさらに酔ってしまいそうだった


 安雄は僕の部屋でグロッキーになっている。


 僕以上に飲みすぎていたからだ。 


 泥酔しながら、


「俺は嬉しい!でもむかつく!よくも俺よりも先に卒業しやがったな!」


 そう言って乱暴に僕の顔に腕を回してガッチリと締め上げる。 酒のせいか中々に痛い。 それでも安雄の態度には嫌味は無かった。


 痛む頭を振りながらテーブルの上にある飲みかけのミネラルウオーターを喉に流し込めば、やや温くなったそれは優しく体内に入って胃のむかつきを少しだけやわらげてくれた。


 そうだ、安雄の愚痴めいた賞賛なんてたいしたことない。 


 あのときの…学食での視線に比べれば。


 一体何だって言うんだろう? 軽蔑とも侮蔑とも違う。 確かにそれは含まれていたが、それ以上に…そう、その中の一部の人間がこちらを見る視線が異質で、ひどく不快なものだった。


 それは先輩や先輩の不道徳な行為というよりも僕自身に向けられたはっきりとした敵意のようにも思える。


 からかいや好奇の視線というものならまだ理解はできる。 

 

 でも違う。 明らかに。 

 

 そう、あれはやはり『敵意』という言葉が正しいと思う。 今まで生きてきて、あそこまではっきりと向けられたことは無いけれどその瞳の中にははっきりと憎悪の感情を感じ取れた。


 でも何故だ? 確かに僕は先輩と…その…してしまった。 それは事実だ。


 だからといってどうしてそんな目で見られなければならないのだろう?

 

 そしてその『敵意』をこちらに向けていた数人は全員男だったということもやはり理解できない。


 他人のそういった話…まあ自分には関係の無いことにどうしてあんな強い感情がでていたのだろう?


 考えても何も思いつかないし、頭は相変わらず二日酔いで痛い。


 ふと隣で寝ている安雄が「うーん」と一声発した。 むっくりと起き上がって腫れぼったい瞳をこすりながら、


「おお、起きてたのか…昨日は飲みすぎたな…頭痛いわ」


 そしてそのまま何も言わずにまだ少し残っているミネラルウオーターを手にとって喉に流し込む。


「うわっ…温いな…しかもこれ、もしかしてお前、飲んだ?」


 当たり前のことを聞いてくるので、


「ああ、そりゃ飲んだよ」


 答えると、瞬間安雄は苦い顔をしてから


「…お前と間接キスかよ…いや、待てよある意味、塚原先輩との間接キスになるのか…それならいいや」

 

 寝ボケ眼で寝惚けたことを言う。 


「なんだよ、それ…」


 思わず頬が緩んでしまった。 お互いに二日酔いになってはいてもその安雄の言葉がなんだかとても優しくてお互いに視線を交わしてから笑ってしまった。


 安雄はそのまま、また横になってすぐに寝息を立てて寝てしまう。

 

 先程の深刻な思考はどこかに吹き飛んでいた。 酒臭い空気が充満しつつも静かな自室の中で二度寝する友人のイビキだけが聞こえる。


 そうだ考えてもしょうがないじゃないか。 よくよく考えてみれば僕はある意味被害者(?)なのだから他人にあんな風に見られる筋合いなんて無い。 


 他人がどう思おうが、つまるところそれはあくまで僕と先輩の間柄のことなのだからアレコレ気にしたってしょうがないのだ。


 切り替えるように一口だけ残っていたミネラルウオーターを飲み干す。


 頭はまだ少しだけ痛むけれど胃の不快感は消え去っていた。


 それはアルコールのせいもあったのだろうけれど、あの不愉快な出来事も関係していたのだろう。


 それを無くしてくれた友人の緩く開いた口から垂れる涎を見ながらふと「友達がいるのっていいな」と呟いてしまい、はっとしてしまったが、それを聞いてる者は誰も居ないことに気づいて安堵する。


 おそらく当の本人に聞かれていたら顔を赤らめてしまったかもしれない。 もしかしたら先輩の時以上に。  

 

 それを想像しながらスッキリとした心持ちで僕もまた横になる。


 ああ、よく眠れそうだ。 ありがとな安雄。 


 気恥ずかしくて口に出せないであろう言葉を心中で呟いて瞳を閉じた。



 

 一日中、寝ていたおかげで次の日はすこぶる体調が良かった。 安雄も夜に一度目覚めたらしいが、そのまままた眠り込んで三度寝してしまったので今日は一緒に大学へと向かっている。


「…今日の講義って何限だっけ?」


「確か三現じゃなかったっけ?」


 他愛も無い会話を繰り返す。 でも安雄は塚原先輩とのことはもう聞いてこない。


 おそらくは学食での体験と僕の態度を見て色々と考えてくれたようだ。


 僕も僕で自分からは話さないし、これからも触れることはないだろう。


 結局のところは『アレ』はその日だけで終わったことだと解釈したし、奢ってもらったお金も先輩自身が要らないと言った以上は返す必要も無い。


 まあ、その部分に関しては少しだけモヤモヤはするけどさ…。


 塚原先輩も先輩自身の口ぶりから察するに二度目はないとのことだから向こうから接触してくることも無いと思う。


 僕自身はそれについては最初から期待はしてなかったしね。


 というよりも、先輩自身の悪名の強さを文字通り体験してしまったのだから懲りたというのが正しいのかもしれない。


 いずれにしても僕と先輩が金輪際関わることはないのだ。


 横にいる親友がそれを察してくれているのだからあえて宣言することはしない。

 

 もっともしばらくは好奇の視線に晒されるのは…まあ仕方が無いか。


 それもまあ有名税(?)ということで諦めるとしよう。

 

 見方を変えれば貴重な体験をしたともいえるし、ラッキーな出来事だったともとれるのだから。 


 いずれはこれも笑い話に変わるということを信じて頭を切り替えて親友の馬鹿話に耳を傾けて大いに笑った。

 

 そうするとまだわずかに残っていたぎこちない空気はあっさりと消えて、いつもの日常に戻れた気がした。

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