37.激情(*)―saza

 サザはきっともう二度と開かない筈の目をぎゅっと瞑り、アスカの前に両手を広げて躍り出た。アスカが立ち塞がるサザを退けようと後ろから肩を掴んだが、サザはぐっと全身に力を入れて退こうとしなかった。


 サヤカが呪文の最後の一節を調子を上げて高らかに詠唱する。同時に、脳が震える程の衝撃音が部屋に轟いた。この世の終わり以外には何とも形容し難いその音は、サヤカの魔術が生み出した激しい雷鳴だった。

 サザは自分の命の終焉を感じて、ぐっと身体を硬らせて息を飲んだ。


「……」


 しかし、硬らせたその身体には確かにまだ感覚があった。サザが今いるのが夢や死後の世界で無いと確信するまで、サザはかなりの時間を要した。


(…………私、生きてる。どうして)


 サザはまだ生きていた。サヤカの強力な攻撃魔術の直撃を受けたのに、死んでいない。サザは自分のこめかみをつう、と流れていく汗を感じながら信じがたい状況を理解しようとした。

 目を瞑ったままのサザが生きていることを確信に変えたのは、自分の体を包み込むような温かな何かの存在だった。サザは自分の身体に何が起きているのか理解できず、体を強ばらせたまま、恐々少しずつ目を開けた。


 目を開いたサザの目に最初に飛び込んできたのは鮮烈な赤で、それは血の色だった。目が色を認識すると同時に鉄の匂いが立ち上って渦巻いてくる。

 そこには、サザを抱きしめている人がいた。


「そんな……」


 掠れた声でそう口にして、サヤカが膝から崩れ落ちる。真っ青な顔で這うようにしてこちらに近づいて来た。

 サザに抱きついていたのはウスヴァだった。サザを庇ったウスヴァは背中に抉れて陥没している。傷から血がとめどなく溢れて大理石の床へとみるみる広がっていった。サザを抱きしめていたウスヴァの腕から力が抜けてずり落ちそうになった所を、今度はサザが抱きしめて支えた。


「ウスヴァ……!」


 サザは抱きかかえたウスヴァの身体を素早く仰向けに床に横たえると、ウスヴァの傷を確認する。サザと同様に青ざめたアスカがサザの傍に座り込む。

 ウスヴァの傷はぎりぎり胴体を貫通していないものの、酷い怪我だ。ウスヴァの背中は大きな穴が抉れて陥没し、血がとめどなく溢れている。溢れた血は床に広がり、サザとアスカの衣服の裾を染め始めた。


(駄目だ。これじゃ回復魔術は効かない。もう助からない)


 回復魔術は怪我人の自己治癒能力を最大限に高めて怪我を早急に治す手段だ。奇跡ではない。だから、欠損した臓器や四肢を再生する事は出来ない。サヤカは確実にアスカとサザを殺そうとして、それを理解してこの魔術を使ったのだ。

 あまりに突然の別れを悟ったサザは、焦点の定まらないウスヴァの薄荷色の瞳を見つめながらウスヴァの手を握った。小さく震えるその手は、小さくて白くて細かった。サザはウスヴァに尋ねた。


「どうして私を庇ったの」


「これ以上大切な人を失うのは、もう嫌だった」


 サザの質問に、ウスヴァは小さな声で答えると、苦しそうながら少しだけ首の向きを変えた。サヤカの方だ。


「サヤカ……これで分かってくれた……? 僕は本気だったんだ……」


「……」


 腰が抜けて歩けないらしいサヤカは這いながらこちらに近づいてくる途中で、ウスヴァのその言葉を聞いて床にうずくまる様にしてぶるぶると震えていた。


 ウスヴァは苦しそうに大きく喘いだ。ウスヴァの細い身体から力が抜けていく。指の隙間に溢れる水の様に、どんどん生命がこぼれ落ちていく。サザは握ったウスヴァの手にぎゅっと力を込めた。ウスヴァがぼんやりとした目線を辛うじてサザに向けた。白い肌と細い腕。不釣り合いな豪奢な軍服。サザにとってこの世で唯一の、血のつながった弟。


「ねえ……最後に『ねえさん』って、呼んでもいい……?」


「うん」


 サザが大きく頷くと、ウスヴァの苦しげな表情がほんの少しだけ柔らかくなった。こんな時になるまで敬語を使うのを止めてくれなかった。

 サザはウスヴァの薄荷色の瞳を見つめる。その清らかに透き通った真実の美しさに、最初にウスヴァに出会った時は気が付くことが出来なかった。それは自分の奢りと決めつけだったのかもしれない。サザは後悔せずにいられなかった。

 ウスヴァの唇の端が何かを口にして、僅かに動く。サザはそれを聞き取ろうとして、ぐっと顔を近づける。ウスヴァの唇はそのままの形で動かなくなった。ウスヴァの口元から紡がれた最後の言葉をサザは聞き取ることが出来なかった。


 サザは人の身体から魂が肉体から抜け落ちる瞬間を見た。その絶対的な不可逆をサザはただ、呆然と見守る事しか出来なかった。

 サザはウスヴァの手を強く握って項垂うなだれた。サザの鼻梁を溢れた涙が伝い、ウスヴァの頬にぽつりと落ちた。もちろんウスヴァは目覚めない。サザの肩をアスカの暖かい手が力強く抱いた。


「ウスヴァ様……」


 サヤカが這うようにしてやっとウスヴァの元までたどり着いて、サザの握っているウスヴァの手と反対の手を握ろうとした。


「触らないで!」


 サザは思わずサヤカを強く突き飛ばしていた。サヤカは何の抵抗もなく無様に床に倒れ込んだ。


 せっかく開けたと思った平和への道が、前よりもずっと悪い形に歪んで閉じてしまった。サザとアスカの代わりに死んだ、この世でたった一人の血の繋がった弟はイスパハルとカーモスに正しい平和をもたらそうとしていたのに。


この女のせいで。


 次の瞬間にサザの全身を隈なく支配したのは、この状況を生み出したサヤカへの激しい怒りだった。


(こいつさえいなければ、全部上手く行ったのに)


 サザはウスヴァの軍服の懐にすっと手を差し込み、ウスヴァの護身用の短剣を手に取った。ウスヴァがサザを縛っていたロープを断ち切るのに使った物だ。サザは立ち上がると、短剣の鞘を抜いて放り捨てた。大理石の床に鞘が落ち、床に溢れたウスヴァの血がぴちゃりと跳ねた。サザは怒りで震える身体を深呼吸で抑えると、短剣をサヤカに向かって構えた。


 その短剣を使ってサザが何をしようとしているか理解したアスカは、サヤカの所にに歩みを進めようとするサザの手首を掴んだ。


「サザ。お前の気持ちは分かる。でも、それは駄目だ。お前は復讐が憎しみしかもたらさないことを、ちゃんと分かっているはずだ」


 アスカの言葉にサザは、抑揚の無い声で言った。


「止めないで下さい。だってサヤカは、私の弟を殺したんです」


 サザはアスカの掴んだ手首を振り払った。その時、王の間の扉が開く音がしたが、もうサザの耳には入らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る