31.涙の底―saza

しかし、次の瞬間にサザにもたらされたのは、痛みでは無かった。

 ぶつり、と音がした。それと同時にサザの腕に巻かれていたロープがはらりと解けた。


「え……?」


 訳が分からないサザが動揺し、思わず自分の手首を確かめる。ロープは取り去られ、手首にあるのははっきりと赤く残ったロープの痕だけだった。ウスヴァは短剣でサザの拘束を切ったのだ。

 驚愕したサザが言葉を失っているとウスヴァは続けて同じ様にして脚を拘束していたロープも短剣で切り落とした。


「どうして……」


 サザは縛の解かれた手首と足首に順番に触れる。本当にサザは自由になってしまっている。予想外のウスヴァの行動にサザはベッドの上で呆然と絶句して、目を見開いた。


 無言で対峙する二人夜の闇に包まれたウスヴァの部屋で、細く開いたバルコニーの窓から吹き込んだ風がカーテンとオイルランプの火を音もなく揺らす。

 ウスヴァは少し上がった息を整える様に何回か深呼吸をすると、ベッドから降りてこちらに向き直り、もう一度強い視線でサザの瞳を見つめた。


「逃げて下さい」


 サザはウスヴァの言葉に思わず息が止まった。ウスヴァの美しい薄荷色の瞳が薄闇の中で細められる。その瞳がきらりと煌めく。涙のせいだろうか。


「僕はあなたの涙でやっと気がついたのです。僕が母に会いたいと思う気持ちと、あなたが王子達に会いたいと思う気持ちに何の差があるというのです? 何も無い。ただ、大好きな人に会いたいだけでしょう。そしてそれは僕達だけでなく、イスパハルとカーモスの全ての人の願いだ」


 ウスヴァはそこまで言って一度自分を落ち着けるように深呼吸をすると、話を続けた。


「僕はユタカ王子が憎い。あなたと王子は僕やサヤカが憎い。大切な人を殺したり傷つけたりしたからです。でも、僕達はその苦しみを今、もう一度お互いに与えようとしている。これじゃあ繰り返しだ。またカーモスとイスパハルは歪み合い、同じ苦しみの中に囚われる事になる」


「……」


 思っても見なかった言葉にサザは答えることが出来ない。ウスヴァは言葉を続ける。


「僕は自分が絶対に正しいと思っていた。あなたを手に入れさえすれば全てが解決すると。でも、違ったんです。本当に必要なのは人や物資ではない。カーモスとイスパハルの終わりない憎しみの連鎖を断ち切る事です。君主である僕や、ユタカ王子やアスカ国王が、どこかで互いを赦さなければ解決しないのです。だから、僕が今最もやらなければいけないのは、あなたを無事にイスパハルに返す事です。僕は、間違っていました」


 そう言うとウスヴァはベッドの上にいるサザに向かって跪き、頭を下げた。


 サザはウスヴァの行動に言葉を失って、下げられたウスヴァの頭の艶やかな亜麻色の髪を見つめる。二人の間に無音の時間が流れる。バルコニーの窓からの優しい夜風が、サザの涙に濡れた頬を撫でる。サザは自由になった手で腫れぼったい両目をごしごしと拭うと、ウスヴァにかける言葉を探した。

 サザは胸に手を当てて目を瞑り、真実を探す様に丁寧にウスヴァの言葉を反芻した。


(……ウスヴァの言う通りだ。確かに私達は、過去を繰り返そうとしている)


 サザは心から素直にそう思った。そしてサザはカーモスに来て初めて、ウスヴァを軽蔑していた自分を恥じた。サザは自分では到底、ウスヴァの考えに到達出来ないと思ったからだ。


(ウスヴァは、真剣なんだ)


 この、サザと半分だけ血の繋がっている弟は聡明な人だった。その若さ故の迷いや弱さはあれど、ユタカと同じ様に、君主に値する位にちゃんと人の痛みを理解しそれを取り除く方法を真摯に向き合っている。だから自分が間違っていた事をきちんと認められるし、何より、この状況に置いてサザを逃す判断が出来るのだ。

 でも、母も父も殺され頼る人も居ない、たった十六の青年がこんな判断を出来る様になるのは決して幸せな事では無いだろう。サザは思わず、ウスヴァを歳の近いリヒトに置き換えて考えてしまう。リヒトをこんなに苦労の多い状況に置くなんて、サザは母親として絶対にしたくなかった。


 そこまで考えたサザは、一つだけ、絶対にウスヴァに今すぐに言わねばならないと確信したことがあった。


「……あなたの言う通りだと思います。だから、あなたのお母様を侮辱してしまった事、謝ります。決して言ってはいけないことでした。ごめんなさい」


 サザは頭を下げているウスヴァに向かって話しかけたが、出たのは想像よりもずっと掠れた声だった。まだ跪いて頭を下げていたウスヴァはサザの言葉に頭を上げた。


「気にしないで下さい。僕はそれより遥かに酷い事を今あなたにしています。謝って許される様な事じゃない。それに、あなたがこんな目に合ってるのは、全部僕のせいだ。だから自分を責めないで下さい。暗殺者であることに誇りを持って下さい」


 サザはその言葉に、止まっていた涙がまたぽろりと溢れ出してしまった。それは正に、今サザが誰かに言って欲しかった言葉だったのだ。サザにはもう、先程の様にウスヴァに涙を見せてしまった悔しさは無かった。それは、ウスヴァの言葉に共感しているからだとサザは思った。

 溢れた涙に思わずサザが俯くと、ウスヴァは心配そうに立ち上がり、ベッドの上のサザを支えるように背中に掌を置いて言葉を続ける。


「明日サヤカの手で牢に入れられてからでは難しいでしょうが、今なら間に合います。逃げる方策はあなたの能力頼りですが、僕に出来る事があれば何でも手伝います」


(何て頼もしいんだろう)


サザは思わずごくりと唾を飲んだ。今やサザの中で完全にウスヴァに対する意識が変わってしまった。


「……感謝します。逃げる方法を考えます」


 拘束さえ解ければサザが逃げるには非常に有利な状況だ。ウスヴァが自らサザを逃すとは誰も考えていないからだ。

 ドアの向こうには見張りがいる筈だから、バルコニーから逃げた方がいい。サザはベッドを降りるとそっとバルコニーへ続く窓を開け、外から姿を見られない様にカーテンの陰に隠れながら外の景色を見る。

 城内の高い位置あるこの部屋は周囲を一望できる。サザは安全そうな逃走経路を直ぐに幾つか考える事が出来た。この上等な厚手のカーテンを裂けばロープ代わりにして下に降りられるだろう。ウスヴァに手伝って貰えばすぐに作れる筈だ。城から出てしまえさえすればばサザならどうにでも闇に隠れられる。夜明けまではだいぶ時間があるから何処かで馬をくすねられればイスパハルまでも十分に帰る事ができるだろう。


そこまで考えてからサザはふと、気がついた事があった。


(でも、私がここで逃げたらウスヴァはどうなるの?)


 サザはウスヴァの考えをユタカとアスカ国王に説明すれば二人が理解してくれる自信があった。

 その一方で、ウスヴァがサザを逃すのはカーモスから見れば紛れもなく反逆だ。

 ウスヴァはサザを逃した意図をサヤカ達に説明するだろうが、今までのサヤカとウスヴァの雰囲気では、サヤカがウスヴァの行為を認めるとは思えない。ウスヴァは反逆者になる。そして、彼が上手く立ち回れないのは明らかだ。


 サザがイスパハルへ逃げ帰った後は、ユタカと国王にカーモスまで出向いて今後の和平について交渉してもらう事になるだろうが、それより早くカーモス側でウスヴァに裁きが下ってしまうかもしれない。失脚だけで済めばいいが、今までのカーモスの挙動からして、最悪の場合処刑もある。


(そうなったら私は絶対に後悔する)


 サザは思わず自分の胸を掴むように手を当てた。サザは本当は今すぐにここを逃げ出したかった。一秒でも早くユタカ達に会って、抱きしめて欲しかった。でも、今本当にサザが逃げてしまったら、イスパハルとカーモスの関係の解決の糸口を永遠に失うかもしれないのだ。


(早くイスパハルに帰りたいけど、それより前に私にはやらないといけない事があるんだ……)


サザはごくりと唾を飲み込んで、ウスヴァに向き直った。

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