32.『弟』―saza

「策は纏まりましたか?」


 バルコニーのカーテンの前で一人想いを巡らせるサザに、ウスヴァが話しかけた。サザはウスヴァの薄荷色の瞳を真っ直ぐに見て言った。


「私は逃げません。ここに残ります」


「ど……どうしてです? あなたは帰りたいのでは無かったのですか⁉︎」


 予想外のサザの言葉にウスヴァは明らかに狼狽した。サザはウスヴァを宥めるように、冷静に言葉を続ける。


「今逃げれば私は恐らく無事にイスパハルに戻れます。でもあなたはカーモスの反逆者になる。あなたが処刑や投獄されれば、結局あなたの想いを成し遂げることは難しくなるでしょう。あなたが居なくなればカーモスとイスパハルの関係はもっと悪化するかもしれない」


「何とかして僕がサヤカ達を説得します。大丈夫ですから。あなたは絶対にここから離れないと」


「恐縮ですが、今までのあなたとサヤカのやり取りを見ていた限り、あなたがサヤカを説得出来るとはとても思えないんです」


 サザの強い言葉にウスヴァは唇を噛んだ。自身でも思い当たる節があったのかもしれない。サザは言葉を続ける。


「何度も言った通り、私は決してカーモスの人間にはならない。イスパハルに大切な人達がいるから。だから私はイスパハルの国民として、あなたとカーモスに手を貸す。あなたが望んでいた通り、カーモスの人達が自分達の力で暮らしを豊かにできる方法を一緒に考えて、考えうる限りの最善を尽くす。サヤカがそれを信じないのであれば私が働く時以外は牢屋に入れられていても、ずっと監視されていても構わない」


「本当にそれで良いのですか?」


「ええ。時間はかかるかもしれない。でも、このやり方なら国王陛下とユタカも絶対に理解してくれると思う。サヤカを説得するのは私も手伝います。でも、私達がちゃんと成果を上げれば、それが何よりの証拠になるはず。そうなればみんなきっとちゃんと分かってくれる」


「……分かりました。あなたがそれで良いと言ってくれるなら、それは現状で最善の策だと僕も思います」


 ウスヴァはぽろりとこぼれ落ちた涙を軍服の袖で拭いながら言った。


「今更ですが、あなたが僕に敬語を使う必要は無いのです。あなたは僕の姉なんですから」


 結婚した頃ユタカに全く同じ事を言われたのを思い出し、サザは思わず口角を上げた。


「私にも敬語じゃなくていいよ。だって、弟なんでしょう?」


 サザがそう言うと、ウスヴァは驚いた顔をしたあと、薄荷色の瞳を細めてはにかんだ笑顔を見せた。ウスヴァは笑うと初めて年相応の十六才の男の子の顔になった。その事にサザは想像以上に安堵を得た。それはサザが初めて見たウスヴァの笑顔だったのだ。


「この結論に辿り着けたのはウスヴァの力だと思う」


「でも、こう思えたのはあなたの涙のお陰なのです」


「やっぱり敬語だね」


 サザがにやりとしてそう言うと、ウスヴァは首を傾げて「慣れなくて」と微笑み、指先で頬を掻いた。


「間違ってしまったらちゃんと話し合ってやり直せば良かったんだね。どうして分からなかったんだろう」


「僕達は過去に囚われすぎたんでしょうね」


「でも、もう大丈夫。生きてさえいたら何回でもやり直し出来るもの。私達で、やり直そう」


「ええ」


 窓からふわりと吹き込む夜風がそよいで、二人の頬の涙を優しく乾かしてくれる。サザとウスヴァじゃ月明かりの柔らかく差し込む部屋で、笑顔で頷き合った。


 —


 反論したウスヴァが去ったサヤカが執務室で一人、大きなため息を付いた。


(これだけ説得しているのにウスヴァ様はどうしてムスタ様のやり方に歯向かうのだろう)


 自分が、君主であるウスヴァを否定する気は無い。しかし、自分が君主になりさえすればカーモスの政治はもっとずっと上手く進むという思いをサヤカはどうしても捨てきれなかった。しかし、ムスタの実の息子であるウスヴァに対してクーデターを起こすような気はサヤカには毛頭無かった。ウスヴァは若くとも聡明で君主になる才能が十分にある人材であることはサヤカも十分に感じ取っていたからだ。

 だからこそ、ウスヴァを正しい道へと矯正する事こそが、兄のムスタ無き今サヤカに与えられた努めなのだと彼女は理解していた。


(一体どうしたらウスヴァ様にムスタ様の想いをご理解頂けるのだろう? これ以上私は何をすればいい?)


 サヤカがもう一度大きくため息を付くと、唐突にドアがノックされた。サヤカが返事をすると一人の男が入ってきた。サヤカの身の回りの業務を一手に引き受ける執事である。


「ウスヴァ様の命によりイスパハルに潜入させていた密偵が戻りました。お伝えしたい事が」


「何だ」


「イスパハルの王子が一般庶民の葬儀に出ていたそうで。城下町にある酒屋を営む年配の夫婦の、妻の方の葬儀でした」


「一般人の葬儀? 普通の王族なら考えられないがあの王子は特殊だ。元々庶民なのだから違和感のある話で無いのでは」


「それが、その酒屋の主人を脅して『なぜ葬儀に王子が来ていたのか』と問い詰めたところ、王子はその夫婦のだと答えました」


 執事の答えにサヤカはぴくりと眉を動かした。


「どういうことだ? 王子の実の父親はアスカ国王だろう」


「今の王子は影武者で、酒屋の息子が王子のふりをしているだけなのです。心優しいアスカ国王は、実の母親の葬儀に出たいという影武者の願いを叶えてやったのでしょう。本物の王子の行方は分かりません。ただ、影武者が成り代わっているのは三日前からだというところまでは突き止めました」


「……成る程。となると、問題は本物の王子が三日前から何処で何をしているのか、か。確か森には暗殺組織の者達を置いていたのでは? 何か報告しているか?」


「いいえ、特には」


「そういえば、あのナギ・アールトも森の見張りに入っていた筈。彼女は何も報告してない? 彼女の持ち場は何処だった?」


「イーサ寄りの国境です。サザ・イスパリアを捕らえた辺りですね。丁度二日前から入っていますね」


「へえ……」


 サヤカは目を細めて顎に手を当てて暫し考え込むと、もう一度口を開いた。


「全く、偶然というのは本当に恐ろしい。業の深い彼らは互いに引き合う運命なのか? まあ、まさかとは思うが、ムスタ様やヴァリスがやっていたやり方に乗っ取り、私達も万に一つの可能性を追求しよう。でも、ナギ程の手練なら迂闊にこちらから仕掛ければ直ぐに感づく。ナギは暫く泳がせる。組織の者にナギを悟られない様に慎重に監視するように命を出して。あと、このことはウスヴァ様にはお伝えしないで」


「承知しました。しかし、こちらの調査はウスヴァ様のご命令でしたので、私は報告しなければなりません」


 執事の男は少し焦りを見せて言った。


「それなら、私からウスヴァ様に報告しておきますから問題ない」


「承知しました。それでしたら仰せのままに」


 執事は折り目正しい礼をすると、足早に執務室を去っていった。


(ウスヴァ様に考えを改めてもらうためには、もっと私が率先して行動に出なくては。これはその為の千載一遇のチャンスかもしれない)


 サヤカは執務室で一人拳を強く握りしめ、意志を新たにした。

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