30.衝突―saza
その日も一日サザはほぼ無言でウスヴァの部屋で過ごした。昨日と同じ様に日が暮れて、サザがウスヴァの部屋で過ごす二日目の夜となった。
サザは何とか逃げられないかと
『どんな時も最後まで諦めない』がサザのモットーだったが、今回ばかりはもう駄目かもしれない。諦めが冷水の様な冷たさを持ってサザの心を這い上がり、侵食し始めていた。
日の落ちた薄暗い室内はオイルランプと暖炉の炎だけで照らされている。そろそろ、昨日であればウスヴァが寝始めた時間か。サザは昨日と同じ様にぼんやりとベッドに横たわっている。
明日、サザはサヤカに牢屋に連れて行かれることになる。そうなればもう逃げるのは絶望的だ。
それでも、カーモスの人間になる位なら死んだ方がいい。サザはこの選択肢以外に考えられなかった。だからサザは十中八九、カーモスの冷たい牢屋で死ぬことになるだろう。
「何度も聞きましたが、もう、気持ちは変わらないのですね」
ソファーに腰掛けたウスヴァが言った。
「言うまでもありません」
「分かりました。でも、今まで僕の話ばかりをしましたから、少しだけあなたの話を聞かせてもらえませんか?」
「嫌です」
サザが即答するとウスヴァは肩をすくめた。
「じゃあ最後に、僕の母の話をしてもいいですか? 僕が勝手に話すだけです。別に聞かなくてもいいですから」
サザはきっぱりとウスヴァの言葉を無視する。サザに無視されることにも慣れたのか、ウスヴァは特に構わずに話を続けた。
「僕の母は側妃ですが、実際の所は娼婦でした。母は借金の肩に両親に娼館に売られたんです。母は学はありませんでしたが美しく機転の効く人で、十八の時にカーモスの歓楽街で最も高い指名料の取れる娼婦になりました。ムスタには正妻がいましたが、母は特別に気に入られて側妃として迎えられたのです」
「……」
本当は耳を塞ぎたいが、縛られているので出来ない。サザはウスヴァに背を向けるようにしてベッドにぼすんと寝転んだ。ベッドの豪奢な天蓋が衝撃でふわりと揺れた。ウスヴァは話を続ける。
「学が無くて苦労した母は、僕には同じ思いをさせたく無かったそうです。ムスタは僕には一切興味がありませんでしたが、母はムスタに上手く取り入り、僕を留学させたんです。そのお陰で僕は戦争に巻き込まれず、こうやって国王として必要な知識も十分につけることが出来ました。これでも結構頑張ったんです。留学先ではずっと首席でしたから。母に会いたいと思うことはあります。でももう、この世にはいなくて。そして、その代わりにあなたを求めているのかもしれないと思う」
ウスヴァはそこまで話すと、はあ、とまるで深呼吸のような大きなため息を付いた。背を向けて寝転んでいるサザにはウスヴァの顔は見えないが、何となく涙を堪えているような息遣いを感じた。
(本当にウスヴァは何処までも自分勝手で、迷惑だ。そんな風に訴えかけられても私は絶対に
サザは感情を無理やり蓋をする様にぐっと目を
それでもサザはウスヴァの話から、どうしても脳裏に浮かんでくる人達がいた。
ユタカとリヒト、カズラとアンゼリカ、そして父であるアスカ国王、今までにサザがイスパハルで出会った沢山の人達だ。そして、何処かで生きているという本当の母親のことも。
(私だって会いたい人が沢山いるのに、ウスヴァのせいでもう二度と会えない。何で……!)
サザは突発的に頂点に達した怒りの衝動にがばりとベッドから身体を起き上がった。ウスヴァを殺気立った形相で睨みつける。ウスヴァは突然のサザの変化に驚愕して目を見開いた。
「あなたの話なんかもう、一秒も聞きたくありません。黙って下さい。あなたの母親だろうと、私の大切な人達に比べたら微塵も大事じゃない」
ウスヴァははっとしてサザを見やるも、直ぐに眉間に皺を寄せて険しい表情になった。サザが正面を切って自分の母を侮辱してきたのでウスヴァも頭に血が登ったらしい。サザの怒りの視線を真っ直ぐに受け止めると、口を開いた。
「僕の事はいいですが母を悪く言わないで下さい。そう言うなら話して下さい。その、あなたの大切な人の事を」
サザはウスヴァの言葉に一瞬迷ったが、話を続けることにした。沸き起こった怒りがどうにも収まりそうに無かったからだ。
「……分かりました」
「あなたと王子の馴れ初めは有名な話ですから一通り知っています。でも、僕にとってユタカ王子は親の仇だ。ひたすら憎い人です。あなたから見て王子はどんな人なのです?」
ウスヴァはソファに座ったまま、ベッドの上のサザに尋ねた。出来るだけ冷静さを保とうとしているような口調だ。十六の青年が君主として出来る精一杯さをサザは感じ取った。サザは激昂を深呼吸で少し静まらせ、考えを巡らせてから、ぽつりと短く呟いた。
「……優しい人、この世の誰よりも」
サザはユタカと一緒に歩いた城下町で、ユタカと繋いだ手の温かさを思い出す。
リヒトに送るマフラーを一生懸命選んで、手を取って、笑い合って、一緒に歩いた。その夜、ベッドでサザを抱きしめて、母親に会いたい気持ちに悩むサザに「サザの人生はサザのものだ」と言ってくれた。その時のユタカの思い詰めた様な真っ黒な瞳をサザははっきりと思い出せる。
そんな事を言える優しい人がこの世に他に居るだろうか?
初めて会った泥まみれだった顔も、サザを守ろうとして傷ついた森の中での必死な顔も、いつも隣で微笑んでいる顔も。
笑窪のある優しい笑顔。いつだってすぐに思い出せる。サザの、この世で一番大好きな人。でも、もう二度と会えないのだ。
「私の、大好きな人」
サザは自分で発した言葉を引き金に、今までの激しい怒りが一気に悲しみに置き換わったのを感じた。自覚するよりも身体の反応が早く、涙が止まらなくなった。
ウスヴァにこれ以上涙を見せたくないという意思はサザの強大な感情の唸りを前に、木っ端微塵に崩れ去っていく。
涙が滝のようにぼろぼろと溢れてきて、手を縛られて顔を拭えないサザはベッドにうつ伏せになった。
「う……」
こんな風に激しく泣いたことが、前にもあった。サザがイスパハルで裁きを受ける前の夜だ。あの時も死を覚悟していたけれど、今は比べものにならない程に絶望的な気持ちになのは、自分が許せないからだ。
この状況は紛れもなく、自分の失敗のせいだとサザは感じていた。ユタカと国王陛下は暗殺者としてのサザを信じて、この任務を任せたのだ。
絶対に任務をやり遂げることこそがサザの暗殺者としての矜持だった。
「私が失敗したせい。暗殺者の娘に、生まれたせい。何もかも、全部私のせいだ。私なんて」
そこにあるのはただひたすらの絶望だった。激しい嗚咽に邪魔されて息が詰まった。
ウスヴァはサザが激しく泣き出した様子に驚愕したらしくソファに座ったまま、サザを凝視し引き攣った表情で固まっていた。サザは小さくない泣き声を押し殺す為に力を込めて枕にぐっと顔を埋めた。
_
夜半過ぎまで泣き続け、遂に涙の枯れたサザは静かな部屋のベッドの上にうつ伏せに横になったまま、枕から顔を上げてずるずると鼻を啜った。
ウスヴァは何度かサザに話しかけようとしてきたサザはウスヴァの問いかけを完全に無視して泣き続けた。
今、ウスヴァはこちらに目線をやりながら、ソファーに座っている。こんな時でも相変わらず姿勢が良い。
涙が血に変わりそうな程に泣き続けたサザは一つ、絶望的に確信したことがあった。
(私はやっぱり、暗殺者に生まれなければ良かった。そうすればユタカに出会わなくて済んだ。ユタカやリヒトやカズラやアンゼリカや、沢山の人達のいる温かさを知らないままでいれば、失うことだって怖く無かったもの)
本心ではサザは絶対にそんな風に考えたくなかった。沢山の人がサザに与えてくれた何にも代え難い愛情を全部否定することになるからだ。
ユタカの笑窪の優しい笑顔も、ジャンプして抱きついて来るリヒトの小さな身体も。サザをからかうアンゼリカの得意げな顔も、いつも冷静にサザを信じてくれるカズラの顔も。愛しいその全てを、どうして否定できるだろう。
それでも、そう思わなければ気が狂ってしまいそうな程、サザは心の底からユタカを、そして、大切な皆を愛していたのだ。
「……最後にもう一度、会いたかった」
サザは自分でも気づかない程に自然に、そう口にしていた。その言葉と一緒に、泣き腫らした深緑色の瞳からもう一度、枯れたはずの涙の粒がつう、と流れた。
その時ウスヴァは目を見開き、勢いよくソファから立ち上がった。思い詰めた様な表情のウスヴァは、自分の軍服の前のボタンを開けると懐に手を差し込み、何かを掴んで取り出した。
(え?)
それは短剣だった。柄と鞘には宝石と銀細工の細かい装飾が施されている。護身用のものなのだろう。サザはウスヴァの意図が分からず、反射的にベッドから身体を起こし、体を硬らせて身構えた。ウスヴァは鞘から抜き取ると懐に仕舞い直し、右手に短剣を握ってサザに近づいてきた。
「ここで私を殺す気? それとも自決しろと?」
サザが睨みつけながら質問をすると、ウスヴァはそれには応えずにつかつかとこちらに近づいて来た。ウスヴァの後ろに纏めた亜麻色の長い髪がさらりと揺れる。サザは静かにウスヴァの喉仏がごくりと上下するのを認めた。
ウスヴァは険しい表情のまま、短剣を持つのと逆の手で、ベッドの上のサザの肩を力強く掴んだ。
「触らないで!」
サザが身体を捻ってウスヴァの手を振り解こうとするも、ウスヴァは歯を食いしばってサザの肩を手を離そうとしない。ウスヴァは顔を赤くして細腕に力を込め、サザをベッドに押さえつけてきた。サザは極限の力で抵抗しようとしたが、流石に手足を縛られていてはそれは叶わなかった。
ウスヴァはサザをベッドの上でうつ伏せになるように肩を抑え付け、サザの後ろで縛られた腕にぴたりと短剣を当てる。サザがその決定的な冷たさに思わずぐっと歯を食い縛り、目をきつく瞑った。
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