Ⅵ:明日とは選び取るもの
45.鈴蘭の草原にて
「……う」
永く眠っていたらしいウスヴァは、薄らと目を開けた。通り抜ける風が頬を撫でる。気がつけばどこかに横たわっていたらしい。
見慣れない景色にはっとしてウスヴァは思わず上半身を持ち上げた。辺りは白いがいっぱいに咲き乱れた草原だった。風がそよぐと鈴なりの花が揺れる。鈴蘭の甘く薫る草原でウスヴァは辺りを見渡した。
(ここはどこだろう?)
ウスヴァはゆっくりと立ち上がると、辺りを見渡す。緩やかな丘が連なるようにして、鈴蘭の花園がどこまでもどこまでも続いている。雲の棚引く澄み切った青い空に、柔らかな風がウスヴァの頬を撫でた。全く見たことのない景色だ。ウスヴァは自分の身体を確かめる。自分がいつも着ているのと同じ、カーモスの灰色の軍服を着ていた。
「ねえ、こっちよ!」
風に乗って、女性の声がどこかから聞こえた。ウスヴァは声の主を探して辺りを見回すと、小高い丘の上に人影があった。柔らかに風になびく腰までの長い赤毛を耳にかけながら、桃色のワンピースを纏った柔らかな体つきの女性が大きく手を振っているのが見えた。
「母上……!」
ウスヴァは女性の姿を認めると脇目も振らずに丘を駆け上がった。女性が満面の笑みで両手を広げてウスヴァを待ち構える。ウスヴァは全速力で走り、その腕の中に飛び込んだ。艶やかな香水の香りが胸いっぱいに広がる。ウスヴァは女性の柔らかな胸に顔を埋めて大きく息を吸うと同時に涙した。
城の召使いたちは母のこの香りを「品が無い、これだから元娼婦は」といつも馬鹿にしていた。しかし、これは正真正銘のウスヴァの、誰よりも優しくて大好きな母の香りなのだ。
「お前は本当によく頑張りました。素晴らしい私の息子です。本当に誇りに思っていますよ」
女性がウスヴァの頭を撫でながら優しい声で言った。ウスヴァは涙を手の甲で拭いながら女性から身体を離した。
「嬉しいです……」
しかし、母に会えるということはここがどこなのか。ウスヴァは確信した。
「僕は、死んだのですね」
「そうね。お前の母親としてはとてもとても悲しいことだけれど」
ウスヴァと同じ薄荷色の瞳が少し悲しげに微笑んだ。
「でもね、世界を司る方がお前を奇跡の眷属に回して下さるって。お前が、平和の為にその命を掛けたこと。その美しい心持ちをちゃんと見ていて下さったのです」
「奇跡の眷属?」
「ええ。ここに来た人が次にどこへ行くかは通常は全部その方がお決めになるのだけど、奇跡の眷属となればその道筋がお前の思うままになるそうよ。お前はこれから何処に行きたい? 何をしたいかしら? やり残した事は?」
「今は母上と話がしたいです」
ウスヴァの即答に女性は心から嬉しそうに眉尻を下げて笑った。
「うふふ、ありがとう。そうね。沢山話しましょう。でも、その後のことよ。何でもお前の希望を叶えてくれるそうよ」
「何でも、ですか……」
ウスヴァは顎に手を当ててしばし考える。
「僕の姉さんともう少しだけ、平和な世界で一緒に居てみたかった。話してみたい事が沢山あった。彼女と一緒にもう少しだけ生きてみたかったのです」
「そう……お前らしいわ。私の素晴らしい息子ね。お前の心からの願いなら、それらは全て叶えられます」
そう言って女性は微笑むと、鈴蘭の草原にすとんと腰を下ろした。それに倣ってウスヴァもすぐ隣に腰を下ろした。
「さて、話しましょうか。心ゆくまで話終わったら、その時が来ます。お前と二人きりでこんなにゆっくりと過ごすのは初めてかしらね、城ではいつだって私を良く思わない人の目があったものね」
二人の間にふわりと、花の甘い香りを纏った風が優しく吹き抜ける。ウスヴァは煽られた亜麻色の髪を耳にかけた。女性は膝を抱えてウスヴァの傍らに座り、目を細めてにっこりと笑った。その目元の笑い皺は正しく母のもので、懐かしくて懐かしくてウスヴァはまたしても涙しそうになる。
「母上は、幸せでしたか?」
ウスヴァは涙を堪えたくしゃくしゃの顔で、女性に尋ねた。
「まあ、お前はそんなことちっとも心配しなくて良いのよ。幸せだわ。だって私はお前と出会えたもの」
ウスヴァは思わず女性に抱きついた。女性は微笑みながら、泣き始めたウスヴァの頭を優しく撫でた。
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