26.この世で最も美しいもの―yutaka

「私は、何てことを」


 カズラはそう言って長剣を素早く背中の鞘に仕舞うと、地面に膝をついて女の前に深く顔を俯かせて跪いた。地面にぽつりと落ちたカズラの涙の粒が、地面に小さな丸い染みを連ねた。アンゼリカは慌ててカズラの横に寄り添う様に座り込むと、背中をさすりながら言った。


「泣かないで、こんな事誰も予期出来なかったもの」


 女もそれに合わせる様にカズラの前に屈み込むと、カズラの肩に手を当てた。姿勢を変えたことで肩の傷が痛んだらしく、女は少し顔を顰めた。


「そうだ。お前は正しい。私がお前の立場なら絶対に殺してるからな。そっちの男の頭がおかしいだけだ」


 ユタカもアンゼリカの意見には完全に同意する。傷つけずに済むのが一番良かったが、こんな真実に巡り合わせるなんて誰が予期出来ただろう。あの状況でならでカズラの判断は最も正しかったのだ。女は立ち上がるとユタカに向き直った。


「男。お前マジで何者だ? 剣士じゃなくて軍師なのか?」


「王子です、イスパハルの」


「はあ? 真面目に聞いてんだよ」


 ユタカの答えを冗談だと思ったらしい女は明らかに苛立った様子で片眉を吊り上げた。カズラが目元を手の甲で拭いながら立ち上がると女に向き合った。


「嘘ではありません。信じ難い真実なのです。この方は、ユタカ・イスパリア。共同君主制をとるイスパハルの君主の一人です。お父様はアスカ・イスパリア。国王陛下です」


 カズラのきっぱりとした口調に女の表情がみるみる曇った。


「本当かよ……じゃあサザはイスパハルの王族なのか? カーモスの君主の娘なのに? というか」


 女はカズラの言葉に一気に青ざめるとユタカに向かって顔を上げた。


「お前、の赤ん坊か?」


「……多分そうです」


 。カーモスの息がかかった暗殺者がイスパハルの女王と王子を暗殺した時の事だ。女は青ざめたまま、心を落ち着けるように一息を置いてから口を開いた。


「私はお前の母親を殺してるぞ」


「それは、知ってます」


「……」


 ユタカの答えが信じられなかったらしい女は目を見開いて絶句した。この事実を既に知っていたカズラとアンゼリカは見守るようにこちらのやり取りを息を飲んで伺っている。


「サザとは関係無い事です」


「じゃあお前は、私がお前の母を殺したと最初から知っていてもサザと結婚したのか?」


「それは……」


 あの時サザの母がユタカの母を殺さなければ、ユタカは孤児院に送られることなく、イスパハルの王子として女王と国王の元で何不自由なく育てられた筈だ。本当の両親を想って涙して眠れない夜を過ごす事も無かった。

 でもそれは逆に、サザと出会うことも無かったという事なのだ。どちらかを最選べたとしても選ぶことなんて出来ない。ただ自分が巡った運命だけが真実で、ユタカは今サザを心から愛しているのだ。

 ユタカが質問に答えられずに目を伏せて黙っていると、女は口を開いた。


「悪い、酷な質問をしたな。お前を試した訳じゃ無い。ただ、お前は私を許せないんじゃないかと思ったんだ。私は世界で唯一お前になら殺されても仕方ないと思う」


 女は大きなため息をつくと、ユタカの方を見た。


「あの頃の私が暗殺してたのは大体カーモスの政敵か軍人だからな。完全に組織の命令次第だ。イスパハルの国王夫妻と王子……幼子とその両親を殺せと言われたのは初めてだった。まあ、いつも通り引き受けたよ。そうしないと死ぬのは自分だからな。でも、お前を庇おうとした女王を殺した後、ナイフのあとほんの一押しが、出来なかった。生まれたての赤ん坊のお前が、この世の幸せそのものみたいな顔で眠ってたからだ。この赤ん坊を殺したら私は、もう絶対に、正しい方に戻ってこれなくなると思ったんだ。結果私は任務に失敗したんだけどな」


 ナギは改めてユタカを真っ直ぐに見つめる。サザと全く同じ、深緑の瞳だ。サザより少しつり上がったまなじりは強気な印象を与えるが、その瞳に宿る光は優しい。


「ナギだ。ナギ・アールト。私の名前だ。男はユタカで、お前らはカズラと、アンゼリカか」


 ナギの問いにアンゼリカとカズラはこくりと頷いた。


「サザを捕らえた男は、サザを丁重に扱おうとはしてたな。眼鏡の女も渋々は応じてた。直ぐに酷い目には遭わされなそうな感じはしたけど、何にせよ早く助けた方がいい。お前らはここで野営するつもりだったんだよな? それなら、これまでの話をここで今夜、聞いてもいいか? この辺は私の持ち場だからうちの組織の奴が来る心配は無さそうだしな」


「ええ、もちろんです」


 ユタカは返事をすると、カズラとアンゼリカと共に野営の準備を始めた。


 —


「運命というのは何でこんなに奇妙で、残酷なんだろうな」


 地面に胡座をかいて頬杖をついたナギがぽつりと、独り言の様に言った。四人は夜のとばりの降りた森の中で焚き火を囲んで地面に座っている。四人は言葉少なに只、焚き火を見つめる。時折ぱちり、と音を立てて火の粉を飛ばす焚き火だけが森の中で揺らめいている。

 長い話はアンゼリカとカズラが組織で十歳のサザに出会ったから始まり、ユタカとサザが結婚してリヒトを養子に迎え、今に至るまでの些細をナギが理解するまで続けられた。

 ナギは自分が知らぬ間に祖母になっていた事に少なからず衝撃を受けていたが、サザの話の端々で愛しそうな笑顔を見せたのでユタカ達も少し緊張が和らいだ。一通り話終わった所で、ナギが口を開いた。


「サザの名前は私が付けたんだ。なぎの後に来るのが、さざなみだから。少しでも繋がっていられるようにと思って」


 それに応えるようにアンゼリカが話を続ける。


「素敵。でも、サザはナギさんに体型はあんまり似てないわよねえ。ナギさんすっごく背が高いのに。サザは背が低いの結構気にしてるしそれに、おっぱぃ……」


 何かを言いかけたアンゼリカの後頭部を、カズラが目にも止まらない速さの手刀でばしん!とはたき倒した。


「いっっったいじゃない‼︎ いきなり何すんのよ!」


 アンゼリカが後頭部を両手で押さえて勢いよく立ち上がった。


「お前はっ! 王子の前でなんつー話をしてるんだ! 流石にその話題は止めろ!」


「何よ自分だけ良い子ぶってんじゃないわよ! サザは胸無いのいつも気にしてるじゃない! 絶対カズラだって『そこ遺伝すれば良かったのにね』って思ったでしょ!」


「例え思ってたとしてもこの場で言って良い事とまずいことがあるだろ!」


 カズラも立ち上がって二人は激しく言い争い始めた。ユタカの事で揉めている二人を仲裁した方が良い気がするが「気にしてないから」とか「確かにそうかも」とか、どちらの返事をしても女性三人の前で性癖を晒す羽目になりそうな気がする。

 ユタカは何も分かっていないような顔をして黙っていると、ナギが「へえ、意外じゃん」と独り言を言ってにやりと笑い、頬杖をついてこちらに視線をやった。何か意外なのか聞く勇気が無いユタカはナギの言葉を無視して聞き流した。

 実際は気にしていないというか、サザが恥ずかしがっているのが可愛いのでそれを見ているのは好きだ。そんな三人を見てナギは目尻に皺を寄せて、心から楽しそうに笑った。その屈託の無い笑顔は本当にサザによく似ていた。


「でも、サザはお前らと一緒に、ちゃんと幸せに暮らしてたんだな?」


 ナギが二人の事を笑いつつこちらに向かって投げかけたので、ユタカは頷いた。


「ええ」


「……良かった」


 ナギは口角を上げてただ一言、小さく呟いて素早く俯いた。少しの間の後、微かな鼻を啜る音と共に、焚火で乾いたナギの足元にはたり、と涙が滴り落ちた。ナギの深緑の瞳から溢れる玉のような涙が鼻梁を伝って顎に流れている。


 ナギは産声しか知らない、抱いたことも、話したことも、顔をまともに見た事すら無かった娘のサザを片時も忘れる事なく、命をかけて必死で守り続けてきたのだ。


(そんな尊い想いが、この世に他に存在するかな)


 ユタカはナギのその涙を、自分がこれまでの人生で見たものの中で最も美しいと思った。ナギに貰い泣きしそうになったユタカは鼻を啜ってこらえると、いつの間にか口論を止めたカズラとアンゼリカはナギと同じ様に焚き火の周りに座ってぼろぼろ泣いていた。小さな嗚咽だけが重なった暫くの時間の後、アンゼリカが口を開いた。


「サザの事、絶対に、助けなきゃ」


 ナギが力強い口調でそれに答える。


「ああ。絶対に、だ」


 四人は焚き火の周りで互いを見つめ合い、堅く頷き合った。

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