12.後悔

(サザが夜居ないのは、久しぶりだな)


 サザと出かけた翌日、夜半過ぎに職務を終えたユタカは寝室へと戻ってきたところだ。他国への訪問は無くなったものの、溜まっていた書類仕事が多くあったのを片付けていたら結局こんな時間になってしまった。

 軍服を脱いで部屋着のシャツに着替え、椅子に座って一息ついた。ふとサイドテーブルに目をやると、昨晩サザがコップに差したすずらんが萎れていた。ユタカはコップの水を窓から捨てて水差しから新しい水を注ぐと、早々にベッドに入った。


 サザは今朝早く、任務に出かけて行った。ユタカはサザが支度をする音で目覚めると、サザはちょうど準備を済ませたところだった。潜入や偵察の時はサザは目立つ軍服ではなく黒い革のズボンとシャツを着ている。サザは暗殺者として仕事をする時は必ず短い髪を無理矢理まとめて高い位置で括り上げる。習慣になっていてやらないと落ち着かないそうだ。その姿のサザはとても凛々しかった。


 ユタカが、すごくかっこいいな、と呟くと、サザは「そんなこと言ってくれるのは世界中でユタカとリヒトだけだよ」と言って笑った。

 サザはベッドに身体を起こしていたユタカにそっと口づけると、じゃあね、また明日と微笑んで、部屋を出て言った。


 サザ達への依頼は五日が充てられている。サザが言ったように、国境の偵察なら戦闘になることはまず無いから予定より時間が押すことはないだろう。順調に行けばもっと早く帰ってくるかもしれない。


 今夜は一人だからベッドの真ん中に寝ていいのだが、ユタカは普段サザの寝ているベッドの右側を何となく空けた。いつもならユタカの側で眠っているサザの方を向いて横になる。

 サザは眠る時にユタカが背を向けていると、そのままユタカの背中に顔を埋めて泣いてしまうのだ。

 ヴァリスが熱した剣を繰り返し押し当てたユタカの背中には、焼け焦げた傷痕が殆ど消えずにはっきりと残っていた。ユタカがあの時、直ぐに治療を受けずにサザを優先したからだ。

 怪我自体は問題なく治っていたし、身体は元から傷だらけなのでユタカ自身は大して気にしていなかったが、サザはユタカの背中を見ていると、どうしても涙が出てしまうらしい。サザを泣かせないために、ユタカはいつもサザの方を向いて寝るようになったのだ。

 ベッドに寝転がっているとほんの少しだけサザの髪の匂いがした。ユタカは昨日の夜のサザの少女の様な薄い胸や、抱き合って熱を帯びた肌の感触の方に向かいそうになった自分の思考に辟易し、思わず掌で目を覆った。

 サザに引かれただろうか。朝話した雰囲気ではそんな感じはしなかったが、思い起こせば一緒にベッドにいる間は何だかあまり目を合わせてくれなかった気がする。ユタカは顔を両手で覆ったまま一人静かに赤面し、深いため息をついた。昨日のサザの安らかな寝顔を思い出す。

 そんなに恥ずかしいことを繰り返していても、ユタカは抱きしめあった後に隣ですやすやと眠るサザの顔を見るとふっと心臓を掴まれたように急激に悲しい気持ちになることがあった。

 先日、任務中に脇腹に軽い怪我をしたサザが魔術医師に診てもらった時にサザは子供が出来ない身体であることが分かったのだ。サザは組織に居た時に幹部に腹を強く蹴られその後に回復魔術を施され無かったことがあるらしく、それが原因らしい。


 サザは「リヒトがいるし、そんなに子供が欲しいとは思ってなかったけど、ちゃんと分かるとちょっと悲しいね」と言って、その言葉よりもずっとずっと悲しそうな瞳をして口元だけで微笑んだ。


 その表情に思わずサザを抱きしめたユタカの方が涙してしまい、逆にサザに心配されてしまった。彼女が彼女の人生を生きる上で、これ以上は絶対に辛い思いをしない様にすることが自分の勤めであると、ユタカはその時に改めて強く思ったのだ。ユタカはもう一度、大きな溜息をついた。

 いつも隣に寝ているサザが任務でいない夜にだけ、ユタカは決まって思い出すことがあった。心の内は見えないとはいえ、サザが隣に居る時には憚られるのだ。

 戦争中、死んだ兵士たちが並べられた戦地の居留地の中庭で、ある人の死体を見た時のことだ。


 ユタカが戦争が終わったらと結婚の約束をしたその人は、戦場でカーモスの剣士に斬られて死んだ。

 三つ年上の魔術医師の恋人は、孤児院でずっと一緒に育った。腰までの長い栗色の髪と対照的にいつも切りすぎている前髪と細い身体。ユタカの名前を呼んでは花が咲いた様に笑った。

 人を信じることや、キスの仕方、好きな人の肌に触れている心地よさも、その人が全部教えてくれたのだ。


 戦争中は互いに別々の部隊で従軍していたのでたまにしか会うことが出来なくなっていたが、その人はいつもユタカに会うたび、沢山「大好き」と言い、沢山抱きしめて、キスをしてくれた。

 でも、若かったユタカはそうやって素直に自分の気持ちを伝えることがどうにも気恥ずかしく、はにかんで応じるだけだった。

 ある時、ユタカが参戦した戦場はイスパハルの小さな農村をまるごと巻き込んでいた。ユタカの隊列が到着した時点ですでにカーモスの襲撃を受けていた村は血も涙も無い酷い惨状で、多くの罪のないイスパハルの人々がずたずたに切り裂かれて殺されていた。沢山の死んでしまった人たちの中で、死んだ若い農夫の身体を抱いて泣き叫んでいる娘を見たユタカは、気がついたことがあった。

 もし、死んでしまったら。どんなに好きだとしても、抱きしめることも、好きだと言うことも、何も出来なくなる。それが出来るのは、二人が生きていて、一緒に居られる時だけなのだ。生きているうちに、すべてをしなければいけない。


 その人がユタカに対してそうしてくれていたのは、いつ死ぬか分からない状況でも一緒に居られるその瞬間を大切にしてくれていたからだったのだ。それに気がついたユタカはこの戦闘が終わったらあの人にすぐに会いに行って、沢山抱きしめて、沢山好きだ言おうと決めた。でも、それは叶わなかった。ユタカは分かっていた。戦争で誰が死ぬか生き残るかなんて誰も分からないし、ましては人の運命を自分一人の力で変えることなんて出来ないことは、戦場にいれば明らかだ。彼女が死ぬことだって、自分が死ぬことだって。十分に有りえた。

 でも、その人が生きているうちに、もっと抱きしめ返し、もっと好きだと言うことは、ユタカにも絶対に出来たはずなのだ。

 沢山の兵士の死体と混ざって並べられていたその人の、ぼんやりと開いた瑠璃色の瞳をそっと閉じてやった時、ユタカは今までに感じたどんな絶望よりも深い虚無感を感じた。その人の乾き切らない血がまだ暖かかった。


 今、ユタカはサザのことを心の底から愛している。サザは尊敬すべき強さをもち、ユタカをよく理解して一生懸命に愛してくれる、この世で一番大切な人だ。強いのに妙に涙もろいところ。雨が降ると湿気でとたんにぺたんとなる猫っ毛の髪。戦うには細すぎるのではと心配になるような腕。背中の傷。ユタカの傷跡を優しく撫でてくれる指先。そういうサザの一つ一つがたまらなく愛しかった。

 だからこそ、ユタカはあの時のあの人に対して激しい後悔を、サザに対しては絶対にしたくないと思うのだ。

 もし、もう二度とサザが帰って来なかったとしても。このベッドで一人で眠るのが今日で最後でなかったとしても。絶対に後悔をしないように生きて会える内にサザを強く抱きしめて、言うべきことはちゃんと伝えなければいけない。


(でももし明日本当にサザが帰ってこなかったら)


 ユタカは手で目を覆ったまま、大きなため息をついた。


(きっとおれは後悔するんだ。サザを母親に会わせてやれなかったことを)


 ユタカはサザと同様に、アスカに真実を伝えることは出来ないと考えていた。しかし、カーモスからの帰路で涙でいっぱいになったサザの深緑の瞳を思い出す限り、この秘密をアスカに隠しながら母親のことを無理矢理忘れて生きていくことが正しいとも思えなかった。


(二つの選択肢のどちらも選べないなら、おれ達は一体何を選べたんだろう)


 例え自分の母親を殺した人だとしてもユタカはサザを母親に会わせてやりたかった。勿論ユタカの母親である女王には生きていて欲しかった。話したいことが沢山あった。でもサザの母親も組織にいたのなら無理矢理暗殺の仕事をさせられていた可能性が高い。恐らく本当はサザの母親には罪はないのだ。

 しかし、全てを解決する方法なんてあるのだろうか。あったとしてどうすればその選択肢に辿り着けるのか。ユタカには見当がつかなかった。


(サザが帰ってきたらもう一度話をしよう。答えは見つからないのかもしれないけど)


 ユタカはすずらんの花飾りをユタカに褒められてはにかんだサザを思い出しながら、目を瞑った。

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