3

「フレイヤさん、僕の本名はギジェルモ=フィンバーティアス・コペルベクストです」


 僕は砂の上に書いて見せた。


「ギジェ……」

「難しいですよね。ちょっと特別な発音だし長いし……。それでギルです」

「ああ、こんな発音は初めてだ。それに、今まで聞いたことのないようなアクセントを感じる。なんというか……まるで呪文のようだな」

「え?」


 たまらず僕はのけぞった。この人の語学的センスは本当に超一流なのだと思わずにはいられなかった。音の響きからその役割を感じるなんて、その言葉が作られた意味を、瞬時に深いところで理解していることに他ならない。それは祖父が話してくれた僕らの祖先の特徴と重なって感じられた。


「そうなんです。その通りです。これはかつて僕らの種族が使っていた大きな力を発動させるための言葉の一つなんです」

「種族?」

「はい、実は僕らは魚人族の末裔だと言われています」

「魚人族……」

「ええ。といってももう伝説と言ってもいい遠い昔の話で、今では何一つ人と変わりはないんですけどね。だけど誇りに思っている人たちによって、未だその歴史がおぼろげながらにも引き継がれているんです。ギジェルモ=フィンバーティアスは魚人族が大切にしていた特別な石の名前らしくて……」

「なるほど。まさかとは思ったが、そう言われればしっくりくる。特殊な発音や長さにも納得がいくな。しかしそんなものを日頃から使っていいのか?」

「ええ、もう力なんてありませんし、石自体が行方不明ですから。魚人族はずっと前に海を捨ててしまいました。遠い島からこの大陸へと移り住んだんです。その島自体がギジェルモ=フィンバーティアスでできていたんだそうです。でも、その島のことを知るものは誰もいません。ただ、僕の祖父はひどく憧れていて……。世界の中で忘れ去られていくものだと言うのに、僕にその名前をつけたんです」

「いや……夢が詰まっている」

「え?」

「ギル、それは終わってしまったものではないよ。この先の、可能性を示唆するものだ」


 ぱあっと心の中が晴れ渡っていくような気がした。僕は籠の中からさっき拾ったかけらを取り出した。手のひらサイズのそれは一見流木のように見える。けれど所々に非常に硬さを感じさせる白い輝きがあり、乾ききった植物との違いは明白だ。


「これがギジェルモ=フィンバーティアスです。と言ってもかけらですが……」


 そっとそれを差し出せば、フレイヤさんはほおっと息を吐いた。


「それはすなわち……光鱗石こうりんせきということか?」


 さすがの返答だ。僕は静かに頷いた。


「島はまだどこかにあるんだな。海の底に沈んでいたりするのだろうか……」

「わかりません。衛星からのデータでは何も読み取れないんです。すでに砕けてなくなってしまったのかもしれません……。でも今日のような大きな嵐の後、時々流れつくんです」

「深海から掘り起こされるのか、遥か遠くから打ち寄せられるのか……」

「ええ、どちらにせよ、簡単には集まりません」


 そうか……、と呟きながら、かけらを空にかざして見ていたフレイヤさんが僕に向き直った。


「これを集めてどうするのだ? まさか、魔法が発動するのか?」


 無邪気な質問に僕は笑った。そんなことがあったら素敵だ。


「いいえ、楽器にするんです」

「楽器?」

「はい。確かにこの石はかつては魔道具でしたが、それだけではなく、楽器としても使われていたんだそうです。とても硬い石で、打ち合わせると澄んだ音が出るんです。演奏に適するほどの音階は兼ね備えていませんが、風がその音に恋をして集まってくるのだと信じられていました。なぜかと言うと、風に転がされるとえも言われる旋律がうまれるからです。そしてその音が、人々の体を奥底から癒したんだそうです」

「音楽療法のようなものだな」


 初めてその音を聞いた時、僕は確信したのだ。これはただの音ではない。聞こえたわけではない。けれど感じたのだ。それは信じられないほど深く、僕の奥に到達した。たった一つの揺れだったけれど、それで十分だった。だからこそ僕は、祖父の話を真剣に聞き、その石を探すことを引き継いだのだ。祖父にとっては懐古的ロマンだったけれど、僕にとっては未来への夢だった。


「祖父が初めてこの石に気がついたのも音でした。風の中で転がった二つが鳴り響いたんです」

「なんてこと!」

「僕も聞かせてもらいました。もちろん僕には聞こえません。けれど感じました」

「感じた?」

「ええ、体内で響いたんです」


 そこまで話した僕は、フレイヤさんをうちに誘った。わずかだけれど今まで集めたものがある。それを見て、聞いて欲しかったのだ。この人ならきっと、夢物語だなんて言ったりしない。そんな確信があった。

 祖父の残した小さなコテージ。けれど海が見えるリビングルームは明るく開放的だ。大きな観音開きの窓を押し広げればそこはテラスになっていて、海からの強い風にパラソルや壁に設置した国旗がはためいている。

 細いけれど強靭な紐によって結ばれ吊るされている小さなギジェルモ=フィンバーティアスを僕は持ち出した。


「これです。風が鳴らすものと思った時、ウィンドチャームくらいしか思いつかなくて……。五つしかないからうまく音になるかどうかもわかりませんが……」


 僕はそれをハンギングバスケットをかけるポールの一方にそっとかけた。軽く小さな石たちが海からの風に煽られる。そして……打ち合わされた。

 小さな小さな音。けれど確実にそれは存在していた。微かな響きが、機能をオフして無音の世界いる僕にも伝わってくる。


「聞こえますか? フレイヤさん」

「ああ……。とても小さいものだけれど、すばらしく美しい。これが無数に鳴り響いたら、魂を持っていかれるに違いないと感じるよ。それだけの力がある」


 フレイヤさんの薔薇色の唇が伝えてくれた言葉に感動しかなかった。僕は再び機能をオンにして、ずっと考えてきた大切な話を続ける覚悟を決めた。


「やっぱり……。僕にもわかるんです。空気が震えて肌を伝わってくる。とても小さなものですが、清らかで心が洗い流されるような感覚が、深く深く染み込むんです」

「ギル……」

「フレイヤさんが言うように、これが幾千と風に揺れたら、僕でも『聞く』ことができるかもしれない」

「ああ……」

「僕は思っているんです。これは音をなくしたものたちにとっても、十分な力を持つんじゃないかって」

「音楽療法としてか?」

「はい。だから作り上げたい。その効果のほどを知りたいんです」


 科学が進み、人としての機能上では音を失った僕らも音を受け取ることができる。音声認識されたものは脳内に言葉となって浮かび上がり、それへの返答は記号化され音として組み立てられ、代理音声機能がそれを相手に伝えてくれる。

 日常生活には困らない。コンサートにだっていくことができる。音は脳内でイメージ化され、僕らはそれを見るのだ。一般の人たちとは異なった楽しみ方だけれど、十分に癒される。

 

 ただ、僕はずっと願い続けていた。

 聞くことが叶わなくても、音を肌で感じたい。強烈な落雷や巨大な滝、時には大型獣の咆哮や操作ミスから生まれたスピーカーの破壊的なノイズ。世界にはビリビリと伝わってくるものがある。他の人たちには不快なものでも、僕らにはそれが音に最も近いものだ。

 どれもが苦笑を禁じ得ないものではある。けれどもしかしたらそんな大音量の中にも、清らかで心奪われる美しいものもあるのではないだろうか。そんなものに出合うことができたら、その振動が本当の意味で僕らを癒すんじゃないだろうか。


「それが、この石か」

「ええ、まだまだ夢のような話ですが」

「確かに道のりは厳しそうだな。けれど手繰り寄せられるはずだ。ギジェルモ=フィンバーティアスか……。素晴らしい未来だな。ギル、私は心から応援するよ」

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