第41話 松林の木陰
それから二週間の間、功たちは平穏な日々を送った。
野口の指摘を受けて、害虫のネギアザミウマがはびこったニラを思い切りよく捨て、周辺の防除を徹底したおかげでネギアザミウマの密度を大幅に減らすことが出来たのだ。
そして、害虫の密度が減るとともに出荷するニラの品質は最上級の物が多くなった。
そして、秀志が農林業公社の研修作業の手隙な時に手伝いに来ることも手助けとなっている。
秀志ほど頻繁ではないが春樹も一緒に来てくれることもあり、人手が増えることは確実に功と真紀の経営を後押ししている。
順調に農業が回る中、功と真紀は次の産婦人科の検診の日のことは殊更にに話題にしないようにしていた。
話を始めてしまえば真紀の悲観的な考えが噴出して、収拾がつかなくなる気がしたからだ。
それでも、検診の当日となれば出かける準備をしなければならず、功は朝食を食べながら余計なことを言わないように気を付けつつ真紀に話しかける。
「今日は産婦人科の検診の日だよね。僕も一緒に行くつもりなので今日は収穫はしていないからね」
真紀は、仕方なさそうな表情で功に答えた。
「もったいないな。一日の収穫分で何万円もあるのに」
真紀の言うことはもっともだが、功はニラの収穫サイクルを計算して、この辺で一日休んでも大きな影響がない事は確認済みだ。
功と真紀のビニールハウスのニラは四月と六月の二回に分けて定植しているが四月植えの第一回目の収穫は既に終わっている。
次に収穫するのは十一月の予定だが、その次のサイクルが販売単価が最も高くなる年末年始にあたる予定だ。
その直前までは六月植えのニラの二回目の収穫をしている予定であり、温度管理を失敗して葉焼け等を起こさない限りは順調に売り上げがある見込みだった。
「栽培が軌道に乗っているから、一日くらいはどうってことないよ」
功が真紀を励ますような口調で言うのを、萌音が面白そうな表情で見ていたが、自分も同じように真紀に言う。
「せっかくみんなで出かけるんだから帰りには美味しい物でも食べてこようよ。入江の辺りに美味しいピザ屋さんがあるのでしょ?」
入江というのは地形を示す言葉ではなく隣の地区の街並みがある辺りの地名だ。
功や真紀が住む地区の海岸は岩礁が多く、小さな島陰の湾に漁港があるのだが、入江地区では遠浅の海岸に広い砂浜が広がっている。
それゆえ、京阪神を中心にサーフィンの訪れる人が多く、その中には土地柄が気に入って移住する人もいるのだ。
功たちと同じように移住してから農業を志す人もいるが、入江地区にはピザ屋さんや美味しいフランスパンを売る移住者のお店等が点在しており、西に出かけた時には寄り道するスポットとなっているのだ。
「そうね。海鮮ピザが美味しかった覚えはあるけど」
功は以前山本事務局長と真紀が地元産サルエビを使った海鮮ピザを奪い合っていたことを思い出して妙に懐かしく感じる。
「とりあえず、朝ご飯を食べたら病院に出かけよう」
萌音のフォローも得て、功はどうにか真紀を車に乗せることが出来たのだった。
病院には真紀のインプレッサSTIで出かけることになったが、真紀は自分が運転すると言って譲らなかった。
わだつみ町の港町を過ぎると辺りでは唯一の幹線道路は海岸際のわずかな平地を伝うように伸びている。
真紀の運転するインプレッサは功と萌音を乗せてゆっくりと西を目指す。
真紀が通院する産婦人科がある総合病院は片道四十分ほどかかる遠方にある。
道のりの半分もいかない入り江の街並みが見え、周辺に開けた平地が広がった辺りで、真紀は幹線道路を離れて海岸に広がる松林に続く道に乗り入れた。
その辺りは数キロメートルにわたって砂浜が広がるサーフスポットで、道の駅の駐車場には京阪神のナンバープレートを付けたキャンピングカーも停車している。
真紀は、ハイシーズンを過ぎて人気が少ない海岸のキャンプ場に併設された駐車場に車を止めると大きなため息をついた。
「いやだ。やっぱり行きたくない」
ハンドルに顔を伏せる真紀を見て、功は可哀そうになってかける言葉もないくらいだ。
「真紀ねえ、大丈夫よ。赤ちゃんは真紀ねえのお腹の中でちゃんと育っているはずだから」
萌音も必死になって説得を試みるが、真紀の表情は暗いままだ。
「また赤ちゃんがダメだったら功ちゃんに愛想をつかされそうな気がする。折角喜んでくれていたのに私のせいでぬか喜びになってしまったらら申し訳ないから」
功は真紀がそんなことを考えていたのだとわかり、一生懸命に彼女をフォローしようとする。
「そんなことないよ。たとえ赤ちゃんがダメだったとしても僕は巻きのことを大切だと思う気持ちはかわらない」
助手席に座る功は言葉を続けようとしたが、後部座席にいる萌音が冷静な口調で功をたしなめた。
「功にいちゃん、お熱いのはいいけど、真紀ねえのネガティブモードに巻き込まれて悪い方に話を振っては駄目でしょ」
「そ、そうだった。絶対に大丈夫だから、とにかく病院に行こう」
功は気を取り直して、真紀を予定通りに検査に連れて行くことに意識を集中した。
そして渋る真紀を瀬得して助手席に座らせると自分がステアリングを握って総合病院を目指すことになった。
しかし、海岸部の公園エリアから最短ルートで幹線道路に出ようとしたのが徒となり、住宅地の細い道路で散々迷ったため、病院に着いたのは予約時間ギリギリの時刻となっていた。
さすがに病院まで来てしまうと真紀も拒否することは無く、受付を済ませると程なく名前を呼ばれて診察室に入って行った。
「はあ、やっと病院に連れて来たけど、もしも結果が悪かったら真紀ねえが可哀そう」
いつも陽気なキャラクターで自分たちの気分を盛り立ててくれる萌音が弱気な発言をするのを聞きき、功は祈るような気持ちで診察室を見つめることしかできなかった。
やがて、真紀が診察室から姿を現すと、功は自分の心臓の鼓動が頭の中で響くような気がした。
しかし、真紀の表情が読める距離まで来ると心配は泡のように溶けて行った。
彼女がそれまでと一転して穏やかな表情に変わっていたからだ。
萌音も功と同様に真紀の表情の変化に気づいた様子で、満面の笑みで真紀が口を開くのを待ち受けている。
「順調に育っているそうよ。帰る途中で石窯焼ピザのフェデリコで美味しい海鮮ピザを食べて、ちびちゃんにも栄養をお裾分けしなきゃ」
もったいぶった真紀のコメントを聞いて、萌音はゴールを決めたサッカー選手のように無言で喜びの舞を踊り、功も適当に調子を合わせる。
病院の待合で大きな声を出さないように気遣った割に二人は周囲から浮いていたが、幸い苦情を言われることは無かった。
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