第34話 何かが吹っ切れた時
野口の母、静江に対して、真紀は物おじしない雰囲気で告げる。
「野口君が酔いつぶれていたから連れて帰ったのですけど」
静江は、功と代行運転サービスのドライバーたちが意を見て両手で口を覆った。
「まあ、夕方急に出かけたかと思ったらこんなことになっているなんて。あなた達と一緒に飲んでいたの?」
功は野口家の玄関の前まで野口を運んだところで、真紀と静江のやり取りを聞きながら待つしかなかった。
真紀は肩をすくめて静江に状況を説明する。
「違いますよ。私達は妹が福島からこちらに来たところで食事に行こうとしていたのですが、野口君が喜輔の近くで倒れていたのです。喜輔のマスターも彼が飲み過ぎていたと心配して探していたみたいで、マスターと相談した結果私たちが帰る時に野口君を連れて帰ることになったんです」
静江は心なしか慌てた雰囲気で真紀に答える。
「まあ、ごめんなさいね。折角妹さんが来られたところだったのにご迷惑をおかけしてしまって。浩司君、起きなさい」
静江は功たちが抱えている野口に呼びかけるが、彼は反応を示さない。
「あの、家の中まで運びましょうか」
功が遠慮がちに尋ねると、静江は申し訳なさそうに功に言う。
「気が利かなくてごめんなさい。浩司を抱えて重かったでしょう。玄関に降ろしてくれたら後は私が何とかしますから。今日はご迷惑をおかけしました」
功は静江に言われるままに、代行運転のドライバーたちと一緒に野口を彼の家の玄関の上がり框から廊下に運ぶとそっと床の上に下した。
静江は息子の車の鍵を受け取ると、功たちの分まで代行運転サービスの料金を支払い、代行運転サービスのドライバーたちにも丁重に礼を言う。
功は真紀も静江も角が立つような言動をしなかったことに胸をなでおろしていたが、功たちが立ち去ろうとした時に、静江が真紀を呼び止めた。
「真紀さん。私はあなたにお話ししたいことが有るの。少しだけお時間を戴けるかしら」
功は何事も無く帰れると思っていたのに、改めて静江が口を開いたので嫌な予感が走る。
「いいですよ。何のお話があるのですか」
真紀は言葉遣いは丁寧だが何処かよそよそしい雰囲だ。
静江は真紀が見つめる前で何度か口ごもってから話し始めた。
「私は以前あなたに原子力発電所の事故で放射線を浴びているとかずいぶん酷いことを言ってしまったと思うの。その後、息子の浩司と何度か諍いがあり、私は自分が間違っていたのだろうかと勉強したの。今では私の無知ゆえの失言だったと理解している。その節は大変申し訳ありませんでした」
静江は深々と頭を下げる。
真紀は意外そうに目をしばたいていたが、やがてゆっくりと話し始めた。
「ずいぶん前の話だし、そんなに大仰に謝ってくれなくてもいいのに」
静江は下げていた頭をあげたが、その目には涙が浮かんでいた。
「狭い集落のことなのであなたの話も聞いているの。おなかの赤ちゃんが亡くなった時に、私が口にした心無い言葉を思い出してあなたが苦しんでいるのではないかと思って気が気ではなかった。こうしてあなたに謝ること自体があなたに嫌なことを思い出させるにちがいと思ったのだけれど、どうしても謝りたかったの」
功は、野口の母である静江が原子力発電所の放射線被爆について勉強していたとは初耳であり、事態の展開は功が恐れていたものとは異なったが、真紀のトラウマに触れる可能性は高いと思われた。
しかし、今更静江の話を遮っても手遅れであり、彼女が話そうとしている内容を聞き届けるしかなさそうだ。
静江は真紀に対して言葉を続けた。
「私も浩司が生まれる前に何度も流産して、自分は子供を授かることが出来ないのではないかと思い悩んだことが有ったの。それなのにあなたに対して思いやりのない事を言ったのが本当に情けないと思うの。真紀さん、あなたはきっといいお子さんを授かることが出来るから。気を落とさないでね」
真紀は静江の言葉をかみしめるようにしばらく黙っていたが、やがて言葉少なく答えた。
「おばさん。ちゃんと謝ってくれてありがとう」
真紀は静江に会釈して野口家の玄関から外ると、功の車に歩きはじめ、功は慌ててその後を追った。
代行運転サービスのドライバー二人は自分たちの会社の車に乗り込んでおり、残りの一人が功の車の運転をするべく残っている、功の車の横では萌音が功たちが戻るのを待っていた。
「酔っぱらいを送り届けるのも大変なのね」
萌音が屈託のない表情で真紀に話しかけると、真紀も鷹揚な口調で答える。
「どさくさに紛れて私達の代行運転料金も払ってもらえたからラッキーだったわね」
功は真紀の声を聞いて、彼女が嫌な記憶を思い出して気分を害しているわけではないと判り、やっと安心することが出来た。
功のハイゼットカーゴと共に功たちを家まで送り届けると、代行運転サービスのドライバーたちは自社の車で引き上げていき、後には功たちが残された。
「ここが真紀ねえの家なのね。敷地とかすごく広いじゃん」
萌音は月明りの中で、功たちが借りている屋敷の外観を眺めて感心している。
「萌音の部屋はご希望通り離れの建物に準備也也して布団やクローゼットも置いてあるけれど、一人では慣れで寝るのは寂しくない?」
真紀がこれから萌音が寝泊まりする離れの建物を指し示したが、萌音はかあをすくめて見せる。
「新婚さんの新居に同居するほど不粋ではありませんよ。それに、郡山で学校に通っている間は下宿していたから一人住まいは平気なの」
萌音が自分の部屋に荷物を運ぶ間に、功は真紀に尋ねた。
「野口君のお母さんがいろいろ言っていたけれど大丈夫だった?」
真紀は功に振り替えると、柔らかな笑顔を浮かべる。
「それがね、自分でも不思議なくらい平気な感じ。今まで野口君のお母さんに言われたことが、すごく心に残っていたのだと思うけど、あの人が自分が言ったことを気にして勉強したり、私のことを心配してくれたことがわかって、その上でちゃんと謝ってくれたからすごく吹っ切れた気分になったの」
功は真紀の言葉を聞いて両足から力が抜けてしまうくらい安堵した。
功が何か気の利いたことを真紀に言わなければと考えていると、離れの建物から萌音の絶叫が響き、それに続いて彼女がものすごい勢いで走ってくるのが見える。
「どうしたのよ」
真紀が尋ねると、萌音は息を切らせながら答える。
「ものすごく大きなクモがいる」
萌音は恐怖のあまりそれ以上話すこともできないようだ。
「功ちゃん、アシダカグモが出たみたいだから退治して」
功はやれやれと思いながら、ゆっくりと離れの建物に向かい、問題の蜘蛛を見つけると窓から外に追い出してやった。
そして、どうやら真紀が立ち直り、明日から元気に暮らしてくれそうだと思って月に照らされた臼木集落を眺めるのだった。
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