第32話 萌音は空気を変える

功は萌音の一言が地雷を踏んだに等しいと思って真紀がどんな反応を示すか気が気ではなかったのだ。

 自分が昨日から必死になって真紀の気分を盛り上げようとしたことが水泡に帰すのではないかと思い、萌音に対して恨みがましい思いすら抱き始めていたのだが、真紀の反応は功が思っていたのとは違っていた。

「それがまだなのよね。功ちゃんにもうちょっと頑張ってもらわないと」真真紀がはにかんだような笑顔を浮かべると、萌音は当た手をピストルの形にして功を射つ真似をする。

「お兄ちゃん、頑張らないとだめでしょ」

「ちょっと待って、何を頑張れといっているんだよ」

功が話の流れについていけずに口ごもっていると、萌音の平手が功の背中をたたく。

「お兄ちゃん、うら若き乙女に何を言わせるつもりなのよ」

 萌音の平手打ちは意外と打撃力が強く、功はせき込んだ。

 その間に真紀と萌音の姉妹は仲良く並んで歩き始めている。

「萌音、駅弁食べそびれたんでしょ。私達の行きつけのお店に連れて行ってあげるわ」

「そうなのよ~。まほろば駅の駅弁楽しみにしていたのに売店クローズしているんだもん。真紀ねえたちの行きつけの店ってどんな店なの?」

 功は真紀たちが街のメインストリートに戻らずに駅のロータリーから町役場の支所の建物に向かうのを見て慌てて後を追う。

「喜輔にいくなら方向が違うよ」

「違わないの。役場の建物の前から川沿いに歩いたほうが、近道なの」

 功はわだつみの街並みはよくわからないが、真紀は街中に住んでいたこともあり、抜け道などに詳しいようだ。

 並んで振り返り、さほど可笑しくもないことにくすくすと笑う真紀と萌音は功の目には違いがわかるのだが、他人が見たらよく似た顔立ちとの姉妹と思うはずだ。

 真紀は明るい性格ではあるが、時に憂いのある表情をのぞかせるのだが、萌音は一点の暗さもない明るい笑顔を振りまくのが違いかもしれない。

「こんなルートがあるとは知らなかったよ」

「私は佳奈ちゃんに教わったの。農協やスーパーの辺りを通るとものすごく遠回りなのよ」

 功は何の気なしにスマホに周辺のマップを表示させたが、地図を見ると真紀の進もうとする川伝いのコースは最短で、功が考えていたルートは正方形の三辺を通るくらいに遠回りなのがわかる。

 日は暮れかかっているが辺りはまだ明るく、堤防の上から見ると水量が 豊富な流れの中に魚が泳いでいる。

 川の流れは功たちが目指す居酒屋喜輔の少し先で海に注ぎ、その向こうには港と湾口に浮かぶ小さな島が見える。

「すごいね。川も海も無茶苦茶綺麗なのね」

 萌音がわだつみ町の風景を褒めると、真紀は自分が褒められたように嬉しそうな顔をする。

「海はきれいだし、南の魚は美味しいのよ。今から行く居酒屋は昼間港に上がったカツオを出してくれるのよ」

 真紀が告げると、萌音は功が知らないアニメかドラマの決めのポーズを取って答える。

「よし、駅弁の件は忘れてカツオを食べよう」

 真紀と萌音は示し合わせたように笑うと再び歩き始めた。

 しばらく歩くと、目の前に橋が見えてきたが、功はそれが遠回りなメインストリートの橋だと気付き、橋を起点に考えて居酒屋喜輔がほど近いと理解する。

 その時、萌音が大きな声で真紀と功に注意を促した。

「見て、あんなところに人が倒れている」

 萌音が指さす人影を真紀は目を細めて見つめると言った。

「それ、野口君じゃないの?ニラの出荷を済ませて家に帰ったはずなのに」

「真紀ねえの知り合いなのね、ちょっと様子を見てみる」

 萌音は一メートルほどもある段差をひらりと飛び降りると露地の突き当りのような場所で横たわる野口に駆け寄る。

「もしもーし、聞こえますか」

 萌音が呼び掛けながら揺り動かすと、野口はかすかに身じろぎした。

「なんかすごーく酒臭いんだけど」

 萌音が報告すると真紀と功も堤防から降りて野口に近づいた。

「さっき会った時と服装が違うから、一度家に帰ってから出直してきたのかな?」

 功は野口の行動を不可解に感じて首をひねる。

 その時、居酒屋喜輔に通じる露地から人声がした。

「功ちゃん。そこに居るのは野口だよね。今日は一緒に飲みに来る約束でもしていたの?」

 声の主は功たちが目指している居酒屋喜輔のマスターである村井だった。

「僕たちは今からマスターのお店に行くつもりだったけれど、野口さんとは約束していませんよ」

 功が答えると村井は困った表情を浮かべる。

「野口はさっきまで僕の店で飲んでいたが、何かあったみたいで飲み過ぎていた。心配になったので駐車場を見たら野口の車が残っているし、あいつがいつも使っている代行やタクシーの会社に聞いても今日は乗せたりしていないというから探していたんだ。案の定、行き倒れていやがった」

 功はわざわざ野口を探しに来た村井を見て、さすがは同級生だなと妙に感心しているが、その間に野口は意識を取り戻していた。

 朦朧とした雰囲気で目を開いた野口は自分を見下ろす萌音の顔を認めると、幼児のような無邪気さで萌音に手を差し伸べる。

「真紀ちゃん、会いたかった」

「ぎゃあああああ、何この人、ちょっとやめて」

抱き付こうとする野口を萌音が必死になって両手で押しとどめているのを見て、村井と功は慌てて野口を引き離しにかかった。

「こら野口、飲み過ぎなんだよ。その手を離さんか」

「野口さん、それは真紀の妹の萌音ちゃんだよ。やめなさい」

 どうにか引き離した途端に、野口はいびきをかいて眠り込み、村井は困りはてた様子でため息をつく。

「どうしよう。この状態でタクシーに乗せようにも乗車拒否されそうだな」

 野口の様子を見ていた真紀は、落ち着いた雰囲気で村井に告げた。

「私達は食事程度で帰るからその時に、野口さんを連れて帰るわ。代行運転を頼んで、野口君は功ちゃんの車の後部座席を倒して寝かせておけばいいわよ」

「ありがとう。そうしてくれると助かるよ。食事している間は野口は僕の休憩室に寝かしておくから」

 村井は真紀の提案に感謝した表情を浮かべると、野口を抱え起こして背中に担ぐようにして運び始めた。

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